しかしまぁ他にすることがなかったのか?
日記をつけることにした、noteで。
いつからか自分というものは、ただただ目の前のものを消費していくだけのつまらないものになってしまった様な気がする。あるいは始めっからそうだっただけなのかもしれない。
生産性のという意味では、別に仕事をしてない訳ではない。ちゃんとフルタイムで働いてある程度の生活をしている自覚はある。ただ感覚的には時間を割いて金に換えてるだけなのだ。もしAI技術によって人類が労働から解放され、それでいて今の生活が保障されるベーシックインカムがあれば万々歳だ。
問題はそこではなく、自分がいかに他人から提供される娯楽や情動を消費して生きているかだ。特にSNSを通じて娯楽を受動的に受け続ける昨今では、これらを処理してるだけで1日が消費されてしまう。そこに気付いてしまうと、なんとも無意味に人生を消費してるものだと思えてしまう。
別に今の生き方に何か問題があるわけではない。会社だよりだが税金は納めているし、自分の消費した娯楽に対しての対価は払っているつもりだ。ギブ&テイクが成立している以上はイーブンなので、全く問題なしなのだ。(と思う。)
さて、うだうだ言ってきたが要するに自分も何かしらアウトプットが必要だと感じたのだ。生きた証を残すとか、他人の人生に爪痕を残したいとか、そんな大袈裟なことは言わないが、せいぜい過剰気味な自分の自意識を満足させようとする。
自分の感じたこと、思ったことをつらつらと書くだけでも何か形を成すだろう。なので、日記を書くことにした。
あえて公開日記にするは2つ、それか3つぐらい理由がある。
1つは単純にある程度の強制力を持たせること。誰かに見られてると思えばやらなきゃいけないと、自意識過剰な謎の使命感を逆手に持つ手法。ある意味常套手段かもしれない。
2つは自分の思うところ、感じたところを不特定多数と共有して、あわよくば共感やその反対、意見の賛否を見てみたいと思った。もはや自分は自分の中身を変えられるほど柔軟で多感な時期は過ぎてしまったので、せいぜい凝り固まった自分の中身を確かめるべく、自分を映す他人の目が欲しいと思った。
3つは、これは些か自意識過剰だが、これを見ている誰かに自分が何者か理解してほしいと思った。所詮は日々の戯言や体験禄なんかを書くに過ぎないが、そこにはきっと書いてる本人にも気づかない芯がある気づくかもしれない。それが見知った誰かであれば、感想を言ってくれてもいいし、そっと胸にしまって貰ってもいい。ただ自分がそういう人間であることのヒントになれば良いかな、と思っている。
結局やる事は一昔前のブロガーと何一つ変わらないが、一つ趣味として続けてみようと思う。
2021/5/30
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