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非常階段

 私と貴方は非常階段を昇る。

 貴方に手を引かれた私は、ぐるぐると目が回りそうになりながら、引きずられる様に後をついて行く。

「誰にも見つからない場所へ行こう」
 
 そう言った貴方の横顔が、とてつもなく切なく歪んでいる。私はその横顔を眺めながら、小さく頷いた。

 真夜中の歓楽街はどこか物憂げで、少しでも空が明るくなったら私は消えてしまいたくなるだろう。

 「ねぇ、この後どうするの?」
 
 私は聞いた。
 
 貴方は貴方で小さく頷いて、繋いだままの手を強く引っ張りながら、時々振り返る少し猫背で背の高い貴方のフォルムが、今を生きていない様に見える。

 ここは何階なのだろう。私の視界にぼんやりと、赤、黄、紫、桃色が飛び込む。ぼんやりと映る、下品に輝くネオンを無視しながら、とにかく貴方の半歩後ろをついて行く。    

 貴方のゴツゴツとした大きな手が、少しずつぬるぬると汗をかいてゆく。ゆるい癖毛の貴方の髪を、生ぬるい風が揺らしても、まるで関係ない様だった。

 貴方の少し薄い唇と無駄の無い顎のライン、無精髭と喉仏が、私の目に焼き付いている。

 貴方が放ったひと言が、ネオンの眩しさと喧騒でどうしても聞き取れなくて、聞き返した時にはもう遅かった。
 
 

 貴方はビルの麓で倒れている。

 泣き叫ぶ人、口元を抑えて嗚咽する人、上を確認する様に見上げる人、携帯電話で110番する人……。

 私は自分の頭皮から大量に流れ落ちる汗と、涙と唾液の区別もつかず、ぬるぬるとした両手で非常階段の柵を握り締める。血塗れの貴方を覗き込んだ。

 「死ぬ瞬間を見ていて欲しい」

 あの時の貴方はきっとそう言った。

 199X年 夏の夜

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