意思と喜怒哀楽の表現


決意表明は無意味だと“大人”に言われたけれど、わたしは動いた感情を不完全にもその瞬間発することにこそ意味があると思う。自発しなければ意思は他人に届かない。
“こうありたい”という意思が本人にとって無意味なわけあるか。寡黙であることが大人だとするなら、わたしは大人じゃなくていい。

分かりやすい人が好きだ。
わたしもそんな人間になりたい。

誰かが助けてくれたとき素直に喜びたい。悲しいときは泣きたい。つらいときはしんどいって言いたい。人に怒るのは少し苦手だけど、大切な人が人の道理から外れていると思えば面と向かって意見したい。好きなものを好きだと言いたい。

感情を表に出さないことは、目の前の他人に対する尊重の意を放棄していることだと思う。これはちょっと極端な物言いだけど。
好きの反対は“無”だ。“無”を感じるくらいなら大嫌いを示される方がよっぽどマシだ。

関わる他人には、わたしが相手にぶつけるエネルギーと同等のエネルギーを消費してくれなきゃ困る。楽をされたら、単純に、嫌なのだ。
だからわたしは、わたしのためにエネルギーを消費してくれる人に、同じくらいエネルギーを消費すると決めた。されて嫌なことは人にしない。


これまで生きてきた中で、歳を重ねるにつれずいぶんと諦めることが上手くなったように思う。省エネの立ち回り方ばかり上達してきた。それでいいのか。

「挨拶は、相手に聞こえてなければしていないことと同じだ」と親に習った。これは意思にも言えるのでは。届いていない相手からすれば、察する由もないその意思はないことと同じだ。
察してくれない相手が悪いのではない。届けようとする努力が足りない自分が甘いのだ。

わたしは100%では届かないことを自覚しながら、わずかでも届かせるために自発する。
それ諦めちゃダメだから。


おおすかちゃんを!あなたの力で!生かしてたもれ!✌︎