「いただきました」を言う側

ここのところ、自主創作が楽しい。
ようやく心の安定を自分で図れるようになったのだろう。元々はずっとこうだったのにね。
今回の制作を通して思ったことを残しておきたくて。書くね。あんまりまとまらないかも。


これまでずっと自分で何かを作ろうとするとき、なんでもひとりでやりたいと思ってきた。けれどその中で絶対にひとりではできないことがあったりもして。最近はできない解消にあたり、その道の知識を持った能力のある人を頼るべきだと思えるようになった。

今回初めて「こうしてください」を伝えたのだけれど、いつも「いただきました」を言われる側だったわたしが 「いただきました」を言う側になったとたん、ものすごく変な感じがした。

もちろん依頼主すなわちクライアントはわたしなんだし、こうしてくださいと趣旨や依頼内容を申し伝えるのは当たり前なのだけれど、自分で何が正解なのか途中で分からなくなったりもした。

自分で何をいいとしているのか分からなくなることはすごく恐ろしいことだ。自主制作のモットーは“わたしがわたしを好きと思えるかどうか”である。それを前提に作ろうと思っているはずなのに、なんだかブレそうになる。

自分の中の正解というのは、使われる側としては一見邪魔な要素に思えるかも知れないけれど、人からの依頼に応えるときにも必要なはずだ。本人の意思がなく言いなりでしかない人間は中身がペラペラにしかならない。当然出てくる言葉もペラペラだ。わたしはそうはなりたくない。

わたしはこれがいいと思いますが、そっちもやってみましょうか。えっそれもいいですね。仕事においてはこれが最強。


そして、お金を払って能力をお借りするというのはすごく大切だと思った。
わたしはいくら親しい人だからって、依頼を無賃で引き受けたりはしない。

対価は分かりやすくて好きだ。
お金には責任が乗る。金額に厳しくありたいと言うより、お互いに責任を伴わせたい。対価への意図としてはこっちの意味合いの方が強い。


今回初めて誰かの能力を購入するという体験をして、普段わたしを使ってくださる側の方々の気持ちが、少しだけ分かったような気がした。
「こっちも挑戦してみていいですか」は言ってしまいますね。これも聞きたいしこれも聞きたいし、これも試したい。その中で自分が最良だと思えるものを組み合わせたい。

あと、お願いする立場になってみて、悲しきかなやっぱりわたしは誰かの素材である方が得意だなと思ってしまったな。
これからもずっと、こうしてくださいにノータイムで返せる人間でありたい。

結局こっち側か〜〜〜


でも自主創作はこれからも続ける。誰かのためではなく自分だけに作る自己満足のもの。これからも続ける。



おおすかちゃんを!あなたの力で!生かしてたもれ!✌︎