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正解と不正解は交わっていると思われる

東京事変のギター浮雲さんがライブで音源通りのソロをやらない理由が「正解を決めると不正解が出てきてしまう」から。

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正解があると他の全てが不正解に捉えられたり不正解を言ってしまえば正解が正当化されたりと削られる可能性もありますね。
自分自身にも正解を決めたがる心や不正解を暴きたい心が多少なりとも存在してて何となく弱さと認識しています。

不正解を示すための正解と正解を示すための不正解、こんな使われ方を感じることがあります。

正解も不正解もまだ早いんじゃないかな?と子どもたちと関わる機会に考えることがあります。

もう少ししたら分かることをあえて私たちのタイミングで言わなくとも良くないですか?と特に試合では強く感じます。

大人になって感じることは正解と不正解の「間」で生活していることが大半だということ、以外にその「間」って重なり合ってるもので捉え方一つで正解にも不正解にもなっていきます。

そうこうして会話に可能性を残しておきながら自らの目で見て肌で感じて正解か不正解かは見極められる時間軸は必要かと思います。

結果を急がず待つことで可能性を広げてみては?と思う次第です。

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