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器用貧乏な祖父、広く浅く中途半端な私

「うちのじいじは器用貧乏だったからねえ」

母が、母の父を思い返すとき、よくそう言う。

きよう-びんぼう【器用貧乏】

なまじ器用であるために、あちこちに手を出し、どれも中途半端となって大成しないこと。また、器用なために他人から便利がられてこき使われ、自分ではいっこうに大成しないこと。

(goo辞書より)

祖父は職を転々として生きたそうだ。
その過程のひとつとして、ガラス職人をしていたこともあるんだとか。
病室で最期の最期まで酒が飲みてえ煙草が吸いてえと言いながらとっくの昔に逝ってしまったので、その詳細を今聞くことはできない。

器用貧乏かあ。

私は、何でも器用にこなせるとも言えないけど。
胸を張って、これだけは得意です!と言えることも、ない。  

自分の元々持っている力の範疇で、すべて済ませてきた。


だから、
例え自分が好きだと思えた物事であったとしても、

私のを上回る情熱に、
私以上の力を持っている人に、
努力して得たのであろう才能に、

直面した途端、私の追求心は死ぬ。

昨日は久しぶりにベースを弾いた。
といっても、ネットの海に浮いているタブ譜を拝借して目で追いながら弾く、ほんとにそれだけのことで、特技欄にも趣味欄にも書けない程度の技量だ。

ベースも中途半端に手を出して終わってしまった。
もっと練習していたらなあ、と後悔しながら指を運ぶ。不格好な指が、不完全な音を鳴らす。

自動再生にしていたら、練習用動画が流れてきた。
基礎練習なのであろうが、私なんかに中々追いつけるものではない。

けど、今までスルーしてきた、出来なかった技術に立ち向かっていると、不思議と充実感が湧いてきた。

試してみては、極めるまで続くことなく終わってきた。
Fコードが鳴らない。ターンは振れる。オーリーが出来ない、試合は勝てない、楽譜が読めない段位に届かないカメラの細かい設定も解らない。

だけど、触れてきた。
一歩出すこと、新しいことへの挑戦は、元々保守的な私にとっては、相当な勇気が必要だったはずだ。
喉元なんてとうに過ぎてしまったから、その勇気を絞るまでの勇気を出す大変さも忘れてかけているけど。

触れていれば、一度手放したとしても、また手にとるときの勇気は半分で済む。
得たものって、そう簡単になくさないと気づく。
ちゃんと私の一欠片になっている。
そういえばこれ楽しかったんだって思い出す。
選べる。選択肢を、私は持っている。
過去の興味にもう一度出会いなおせる。

そんなタイミングが訪れたとき、真正面からまた愛せるように。

ここまで書いて、やっと気づく。
私は傍から見たら立派な器用貧乏なんじゃないか。

ゼロから見上げるイチって、10や20と大差なく見えたりするんだよなあ。
他人から見たらわたしは「なんか色々ちょっとずつできるひと」なのかもしれない。

それと、自分でできることが何個かあるって、小さくても自信になっている気がする。
間違いなく、生活を彩ってくれていることに変わりはない。

ああ、それでも、やっぱり、ひとつを極めたひとがどうしたって魅力的だ。うらやましい。極めたあとの自信、とっても欲しい。

支離滅裂な文章なのはわかってるけど私の感情も支離滅裂なので諦めて下書きから流すことにします。

追伸
この度ウィービングをはじめました。
全くお尻が軽いんだから!

2021/01/21

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