それだけというそれだけじゃないやつ


謝罪なんか要らない。
ただ抱きしめてくれればいいのに。
小さい頃からずっと思う。

親がお茶碗を投げ合うような喧嘩をする度、
地震が来たかのように机の下に逃げ込むのが日常茶飯事で、
いつまで独りで耐えないといけないのかずっと不安だったし
もう1人の自分を脳内に生み出して自分を宥めるので精一杯だった。

喧嘩の内容を聞く度、2人とも意地張る前に抱きしめたらいいんじゃないの?
と子供ながらに考えていた。
いつも酷い喧嘩だけど2人にはまだ絶対愛があると信じていたので、抱きしめるのが1番の解決策だと思った。

なんなら自分が抱きつきに行ったこともあったけど、ガン無視か冷たく「あっちいって」と言われて逆効果だった。

なんにも分かってないバカ同士が。
夫婦は同じレベルが引っ付くというが本当にそうだな。
そして蛙の子は蛙。私もきっと馬鹿なのでしょう。


絵を描き始めて、まあほぼ二次創作だけど
創作物を見返すと
結局私自身が抱き締められたかったんだなと先程描きながら気づいた。

ここ最近他人の幼稚臭い言動を異常に感じ取るようになった。
少し自分が冷めて大人びてしまったかのような。
そう思ってしまうのも幼稚臭くてまたなんだか痛い。

それと同時に良いように使われていた関係性もどんどん判明してしまって私の周りの人全員に疑心暗鬼になってしまう。

私の優しさというのは、ちぎりパンのように消費されていたのだという気持ちと
自己保身としてのヴェールみたいなものでもあったんだなと
自分は変な優しさの美学を持っていて、
臆病で弱くてめんどくさくて嫌な奴なんだなと
ほとほと呆れてしまった。

臆病だから、元気なフリをして大丈夫なんだと思われて自分がそうした選択なのにやっぱり私の嘘に騙されちゃうんだ…って勝手に期待して傷ついたり、

寝ずに頑張ったのに向こうの言い方から対価を出来れば払いたくないという気持ちも読み取っちゃって
「お礼とかいいから代わりにまた遊ぼうね!」というクソみたいな優しさを振りまく。
コイツは関係を切ろう。
さようなら。
あわよくば死ね。


私の顔に感情が出る時って確かに無意識の時もあるけど、嫌だから辞めてね。という意思表示で、
逆にそれさえも無理やり隠して相手を楽しませちゃうような事を言うのはもう完全にどうでもよくなって関係を切ろうと思っている時だ。



これだけじゃないのだ、ずっとモヤモヤしたものが溜まりに溜まって
結局言えなかった自分への野次。

嫌だなと思ったらこれからその場で言おうと決心した。
言うのもしんどいならもう独りでいいやと言う気持ちで








今は1人で風が吹く大地で芝生を裸足で踏みしめたいし、
森の中で木漏れ日を浴びながら
プール後の教室みたいな暖かさを纏って、苔に塗れた大きい岩の上で昼寝がしたいよー

とエアコンガンガンな部屋の中、目をパンパンに腫らして自分に対して自分のための自分のお気持ち表明をしているきしょ女居る?居ねぇよな!!

いい加減、自分の気持ちは自分で責任をとれ!
しかし自分のご機嫌は自分で取らなくていい。

好きな物は能動的ではなくもはや受動的に吸ってるもんでしょ。
気づいたら推しが私のところに来てるんだよ。

気持ち切り替えて今日もお仕事頑張るぞ!


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