大島薫初の小説『不道徳』 #32/32
抜けるように青く晴れた空に、入道雲が浮いている。あれからまた、数ヵ月のときが経った。
「え! じゃあ、あんときの舞ちゃんの相手って、陸だったの?」
待機室のベランダの欄干に背中をもたれかからせ、携帯に向かって拓海が素っ頓狂な声を上げる。
「うん、私は陸くんが男性が好きなの、本人から教えられてたんだ……だから、あのとき拓海さんに事情はいえなくて……」
「で、あいつ、本当に会社にも来てないの?」
「ちょうど、拓海さんが陸くんに最後に会った日からだよ。もう会社では辞職扱いになってる」
拓海はしばし考え込む。平気で他人を傷つけてまわった陸も、なにか思うところでもあったのだろうか。
「――あいつも、苦しかったのかな」
「え?」
拓海が呟いた言葉に、舞が問い返す。
「いや、舞ちゃんを傷つけたことは許せないけど、ゲイなのに俺の元カノや舞ちゃんと、その……そういうことしたのをさ、あいつノンケになれるならそのほうがいいからっていってたんだ。あいつもずっと、周りの人間と違っていることに悩んでたのかなって……」
拓海の言葉に、舞はすこし黙ってからこたえた。
「やっぱり拓海さん変わった」
「え?」
今度は拓海が訊き返す。
「私、入社当初の拓海さんって、もっと無神経で自分の目線でしか物事を考えられないのかと思ってました」
「酷いいわれようだな……」
ガックリという拓海の耳に、舞の笑い声が響く。
「あはは、でも、会社辞めるすこし前から、他の人の見ているものに敏感になりましたよね」
拓海はその指摘に納得をした。事実、ウリ専に勤めてから、色んな立場の人を見てきた。
「あのとき私のことも慰めてくれたし、怒る相手である陸くんのことまで理解しようとしてる」
拓海は黙って舞の言葉を聞いている。
「でも、残念。まだ半分かな。五十点!」
「え?」
突然の舞からの採点に、拓海は呆けた声で反応した。
「ふふっ、陸くんはね、拓海さんのことが好きだったんだと思うよ」
「はー? 好きぃー?」
拓海の馬鹿っぽく返すが、舞は至極当たり前のことのように話した。
「だって、そうじゃない? 別になんとも思ってない人の彼女に、ちょっかいかける必要なんてないもん」
「いや、え? は?」
「あっ、ごめん、私、そろそろ仕事戻らなきゃ」
舞はそれだけいうと、あっさり電話を切ってしまった。
通話を終えた拓海は、舞の言葉の意味を数秒考えていたが、すぐにこたえを出すのを諦めた。待機室のベランダの欄干に肘をかける。懐から電子タバコを取り出して咥えた。煙を吐き出しながら前方を眺めると、数キロ先のビル群が、いまはすこし遠くに見える気がした。
ガラガラと音を立てて、背後の窓が開いた。ヒカルだ。
「おつかれさまです」
拓海が声をかけると、ヒカルはその手元にある電子タバコに注目した。
「お、まだ続いてるんだ。禁煙。別にニコチン出ないなら、中で吸ってもいいのに」
「一応、煙たくなりますから」
ヒカルの言葉に、拓海は苦笑して返した。
美香との関係に進展はない。陸と美香の関係は本当に終わったようだったが、いまもこの仕事を続けている負い目もあり、拓海はそれ以上彼女との仲を深める気になれなかった。
「でも、カズヤくん、結構タバコ吸ってたのに、よく止める気になったねぇ。やっぱお客さんにやめてっていわれたとか?」
拓海の隣で同じように外を眺めながら、ヒカルは取り出したタバコの煙を燻らせる。
「いいえ、自分で、決めたんです」
大仰にいってみせる拓海だったが、ヒカルは失笑した。
「なにそれ。禁煙ってそんなすごい決断なの?」
拓海はその言葉に落胆したような顔をする。
「いやー、それがすごくないのが、問題なんですよねー」
あのとき陸に切った啖呵通りに生きられているのか、拓海はまだまだ不安に思う。結局、就職し直すのか、いっそのことふっきってウリ専ボーイとして生きるのか、拓海にはまだこたえが出せていなかった。あの一件の後、事情を田沼に話すと、「実際の被害者がいないのでは、殴った罪も問えない」といわれ、拓海は店に残ることを許可された。だから、店に残っただけだといわれればそれまでだが、安易にすぐ次の職探しを……という選択をしていないのも、いままでの拓海らしくなかった。
拓海はヒナタにいわれた「みんなどこかで自分を偽っている」という言葉を思い出す。自分で選んでいるように見えることも、選ばされていることだってある。
結論をいうなら、拓海は少し思慮深くなっただけで、本質は変わっていないのかもしれない。だが、なにかを考え始めたことが大切な気もしている。
ふいにヒカルが、思い出したように声をあげた。
「そういえば、店長がいってたけど、ツカサ、ちょっとは歩けるようになってきたってよ」
「ホントですか!」
「ああ、リハビリ中の写真、見してもらったよ」
「わあ! 俺もあとで見せてもらお」
拓海は心の底から喜んだ。あの日、陸を殴った事情を説明していたときに、拓海がツカサの話も伝えたことで、田沼が本人に連絡を取ったのだった。ツカサは奇跡的に一命をとりとめていた。
店を去ったツカサはどうやら梅毒にかかっていたらしい。検査でそれが発覚したあと、店に顔向けができないと考え、逃げ出したのだそうだ。連日うなされていた悪夢や発疹も、初期症状の影響だったらしい。
陸との会話後、店を出て飛び降りたあともツカサにはまだ息があり、すぐに救急車で運ばれていたそうだ。身分証や携帯電話の情報で実家に連絡がいき、すぐに家族が駆け付けた。田沼が聞いていたところによると、ツカサと両親の仲は最悪だということだったが、ちゃんと息子の心配をしていたらしい。
ツカサの意識が戻ってしばらくして、数年ぶりの家族会議が開かれた。ツカサは洗いざらいを打ち明けたらしい。自分がゲイであること、ずっとそれをいい出せなかったこと、家出をしたあとは風俗店で働いていたこと。本当に、全部。
もちろん両親は困惑したそうだが、自殺未遂まで図った息子が晒した心の内を、受け入れることにした。入院を終えたツカサは、いまは実家のある香川県で自宅療養中とのことだった。
「なんかさ、今度女装のボーイが入ってくるらしいよ」
ヒカルが横でポツリとつぶやいた。
「え、マジっすか。うち、ニューハーフヘルスじゃないですよ」
拓海が目を大きく見開いていった。
「なんかウリ専に女装男子入れるの、流行ってるらしいよ。店長も『新規開拓だ』って」
「ひえー、俺、仲良くできっかな」
拓海が悩まし気に額を押さえる。
「できるんじゃない? てか、拓海くんも案外似合うかもね」
「ごほっ、ごほっ! もー、やめてくださいよー」
ニヤリとしたヒカルに、拓海は思わず咳き込む。拓海のその姿を笑いながら、吸い終えたタバコを灰皿に捨てたヒカルは、窓を開けてベランダから待機室に戻っていく。ふと、片方の足だけ待機室に踏み入れた体勢で、ヒカルがふり返って拓海に訊ねた。
「拓海くんは入らないの?」
拓海はベランダの欄干に背中を預け、一度ぐーっと空を見上げてからこうこたえる。
「まだ、もう少し、ここにいます」
入道雲の間を、一機の飛行機が通り抜けていった。
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