大島薫初の小説『不道徳』 #25/32

 まただ。takeこと、三好武人は自分のベッドの上で思う。電気を消した自室で、寝ている自分の上に人の形をした黒い影がモゾモゾと動きまわる。その人影はやがて自分の身体を弄り、舐め回し、肛門になにかを出し入れし始める。
 人肌の温度が伝わる不快感、這いまわる舌とともに吐き出される吐き気のするような口臭。そんな嫌悪感を味わいながらも、武人は身体が動かせない。あり得ない、ここは自分の部屋だ。あいつはもういないんだ。そう頭では理解しているのだが、いま行われている行為は、まるでさも現実の出来事のように武人の目に移る。
 こういうのを幻覚というのだろうか。だが、武人はあの醜悪な男に犯された日から、定期的にこの影に襲われるようになった。大体が眠っているときだ。連日こいつがやってくることもあるし、数日訪れなくて安心していると、また現れたりする。
 そうして、影はひとしきり寝ぼけた状態の武人を犯し尽くすといつの間にか消えていて、身体は動き出せるようになり、この地獄から抜け出すことができる。今日は長かった。やっと身体の感覚が戻るのを感じた武人は、思わずベッドから飛び起き叫んだ。
「うわあああああああああああああああ!」
 アレが現れた日の目覚めはいつもこうだ。武人の自室のドアが叩かれる。
「武人? どうしたの! また怖い夢を見たの? ねぇ、なんかあったんならお母さんに教えてちょうだい!」
 武人の母はそう懇願する。
「うるさい! うるさい!」
 武人はドア越しに母を怒鳴りつけ、再び布団を頭からかぶって、ガタガタと震えていた。武人は恐怖と嫌悪に怯えていた。武人がなにより怖れ、気持ち悪いと感じているもの、それは他でもない、あれだけのおぞましい行為に快楽を感じていた自分自身に対してだった。

     ◇     ◇     ◇     ◇

 四月になり、拓海の会社にも新入社員が何人かやってくる時期が近づいていた。本社で研修の期間があるので、正式にやってくるのは五月だ。とはいっても、元々中途採用も多く、入れ替わりも激しい職場なので拓海たちにとってはいつものことという感覚だ。
「桐島くん、ちょっといい?」
 午後の業務開始直後、拓海は上司の間島からそう声をかけられた。
間島は言葉ではなく、目線でオフィスの隣にある会議室の扉を示した。なにかいいにくいことらしい。察して、拓海は立ち上がる。
「ごめんね、やることあんのに」
 電気も点いていない暗い部屋で、会議室の椅子に座った間島はまずそう切り出した。ピッシリと着こんだ女物のスーツがよく似合っている。
「いえ、大丈夫ですよ」
 拓海は間島の向かい側に立って、そうこたえた。
「あなたさ、今年で三年目よね」
 間島の言葉に拓海が頷く。
「どう? 三年経って慣れた?」
「うーん、まあ、毎月数字上げるのは大変ですけど、やりがいはありますよ。がんばれば評価してくれる会社だと信じてますし」
 間島がいいたいことがわからず、曖昧にこたえて拓海が苦笑する。
「そう……」
 拓海の言葉に間島が俯いた。なにかを考えているようだ。窓から差し込む光が、逆光になって間島の身体全体を黒く染めている。
「来月から課を一個持ってみない?」
 間島が切り出した話に、拓海は動揺した。
「え、課長ってことですか?」
 間島は腕を胸の前で組んで、話を続ける。
「本社から来月さらに業績を上げるよういわれていてね。それに合わせて人員も、今年は多めに採ることになったわ。問題は責任者が足りないってことね。その対策として、各課から一名ずつ候補者を選出して、仮で一つずつ課を任せてみようということになったのよ。で、うちはアナタ」
 間島の言葉に、拓海は嬉しい反面、すこし疑問が残った。たしかに、入社当時から間島には良くしてもらっているという自覚はある。自分の売り上げだけ考えていればいい平社員とは違い、課長は課の営業成績が自分の人事評価だ。毎月ごとにチーム替えのために課を移動させられている社員もいるが、間島は拓海の数字が悪い月も見放さず手元に置いていてくれていた。
 拓海の営業成績は悪いほうではない。だが、正直良くもない。果たして、そんな拓海が管理する側にまわってやっていけるのだろうか。
「あの……どうして僕なんでしょう。数字だけで見れば、他にも優秀な社員はいると思うんですが……」
 出世の話に飛びついてくるかと思っていたのか、意外に慎重な拓海に間島は苦笑した。
「そうね。たしかにうちの会社は数字で評価するわね。だけど、実際のところ上に立つ人物は数字だけではダメなの。そういう意味ではアナタには期待してるわ」
 拓海はしばし考え込む。
「でも、いきなり僕が上司になって、みんなは納得するでしょうか?」
 拓海の部署には中途採用で入ってきた、拓海よりも年上の社員も大勢いる。その中で突然拓海だけ出世をするなんて、不服に思う社員も当然いるだろう。
「まあ、出世なんていっても仮のものよ。チームリーダーくらいに考えてもらえばいいの。だけど、たしかにそう思う人はいるかもね。だから、ちゃんと成績は上げなさい」
 成績を上げろといっても、いますぐいきなり受注数が増えるのなら、とっくの昔に拓海はやっていただろう。
「私から、いくつか手堅い案件をまわしとくわ」
 間島の言葉に俯いていた拓海が顔を上げた。
「え?」
「私だって一人で営業かけたりすることはあるのよ。その中からいくつか数字の見込めそうな案件をアナタに譲るから、今月中に受注に繋げてみなさい。できるでしょ?」
 拓海は考えた。たしかに、それなら一気に今月の売り上げを伸ばすことはできる。しかし、どこかズルをしているような気にもなった。
「できないの?」
 拓海がこたえかねていると、間島が問い詰めるように訊ねた。
「あ、いえ。できます」
 思わず、拓海は条件反射的に回答する。
「そう。じゃあ、午後からもがんばってね。もう行っていいわよ」
 思い通りの返答が得られたからか、間島はあっさりとそう告げた。
「失礼します」
 拓海は頭を下げて、オフィスへと戻っていくしかなかった。
 拓海が出ていったあと会議室に残った間島は、脇に置いてある人事報告書の書類をパラパラとめくる。その表情は悩まし気だ。
「――まあ、いま課の数字持ってこれる子を手放すわけにはいかないからね。適材適所、量才録用ね」
 そんなことを間島は一人でぼやいていた。

「おい、聞いたぞ。来月から出世するんだって」
 午後の業務の途中、陸からそんな風に声をかけられた。今日も職場では、ひっきりなしに電話の音と社員の声が飛び交っている。
「え? なんで知ってるんだよ?」
 拓海が訊き返す。もうウワサが広まっているのだろうか。
「二課の吉井さんも呼び出されたってよ。聞いたら、来月から課長だって。そんで昼に他に会議室に行ってたのは一課の武田さん、二課は吉井さん、三課はお前だろ? たぶんこのメンバーが来月出世だろうって、そりゃみんな気づくよ」
 もう自分の出世を吹聴して回っている社員がいるのかと、拓海はすこし呆れた。
「てか、それ、あんまいうなよ。まだ発表してないし、出世っていっても仮のお試し期間みたいなもんなんだから」
 拓海が他の社員に聞こえないように、小声で陸にそう注意した。
「仮でも出世は出世だろ? おめでとう」
 陸はそれだけ告げて、拓海の肩をポンと小突いて、自分のデスクに戻っていった。拓海はそんな陸を見て、注意はしたものの、思わず笑みを浮かべた。同僚からそういって祝われることについては、悪い気はしなかった。
 もし来月、課のメンバーを自ら選べるなら、陸を自分の課に入れたいと思った。陸は努力家で頭も良い。営業成績だって、拓海よりも上のことが多い。そんな陸と二人で今度から日々戦っていけるのなら、急な出世も悪くないなと思えた。

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