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大島薫初の小説『不道徳』 #1/32

 二〇一一年十月二十九日午後六時ごろ、警視庁保安課と新宿署によって行われた強制捜査は、その業界においてかつてないほど大規模なものとなった。西武新宿駅からJR大久保駅の中間にあたる小滝橋通り沿い、北新宿と呼ばれるエリアに一件の雑居ビルが建っている。今回の摘発はその地下にある社交クラブ、「スマッシュ」を利用する客の中から違法薬物を見つけ出すのが目的だった。
「そのままで!」
 扉を開けた年配の刑事が両手を広げて、中にいる客たちを静止させる。何人かいる裸の男たちのうち、ある男性二人はまさに性行為の真っただ中だった。挿入中の男性器が次第に張りを失ったのか、相方の肛門からズルリと抜け落ちて、床になんらかの粘液を垂れ落としている。多数の裸の男たちを前に刑事は、カメラを持った捜査員に「写真撮っとけよ」と指示を出した。その後ろでは別の男の頭を掴んで自分の陰茎をしゃぶらせていた男が、不安げに「あの……これもこのままでいいんでしょうか?」と震える声で刑事に訊ねていた。
 一方、その施設の外で、野次馬の中に混じったフードの男が、いまゆっくりと現場を離れていった。

     ◇     ◇     ◇     ◇

 二〇一二年五月某日。
 人の性は歪だ。その日、拓海は自身の股間を伝う他人の精液を見ながら、ぼんやりとそんなことを思った。
 話は一日前に遡る。
 朝方、大学のころから三年間交際を続けてきた、恋人の美香から拓海は別れを告げられた。電話を受ける拓海の傍ら、二十四型テレビでは女性のアナウンサーがニュース原稿を読み上げている。
「本日未明、新宿区の社交クラブ『マッドネス』を経営していた――」
 美香からの電話の内容はいたってシンプルなもので、「好きな人ができた」ということらしかった。どうやら浮気相手の男を本気で好きになったのだそうだ。互いに仕事で忙しい時期も乗り越えてやってきた三年が、そんな一言であっけなく終幕を迎えたことに拓海の心は荒んだ。

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「チェイサーです」
 バーテンダーの男からスッと、カウンターに水の入ったコップが置かれた。拓海がこの店に来たのはこの夜が初めてだ。美香との電話のあと、なんともいえない鬱屈とした気持ちを晴らそうと、自宅の酒を飲み尽くした拓海は、そのまま飲み屋を求めて外に出たのだ。横浜駅から十五分くらいの距離にある拓海のワンルームマンションからは、繁華街も近い。そのまま勢いに任せて、酒が飲めるならどこでもいいと、一件目に見えたこの店に適当に入ったのだった。
「俺、酔ってるように見えますか?」
 バーテンダーのほうを見て不服そうな顔で拓海がいった。やたらと眉毛の細いバーテンダーは無言でグラスを拭いている。すでにその質問が酔っているんだよといわんばかりの対応に、拓海はおどけたように口元をひん曲げてから、ビールの入った自分のグラスへと視線を戻した。
 ちょうどそのとき、店のドアベルがカランカランと鳴った。店の外から、一人の男が慌てた様子で店に駆け込んできた。男はカウンターにいる拓海を捉えると、ツカツカと歩み寄ってくる。
「拓海、連絡くらい返せよ。結構探したんだぞ」
 男は拓海に声をかけた。
「ああ、陸か。悪い」
 拓海が男のほうをチラッと見て、大して悪びれた様子もなくそうこたえる。
 陸と呼ばれた男のほうは、形のいい薄めの唇から軽く息を吐くと、それ以上問い詰めることもなく、仕方ないなといった様子で拓海の席の隣に座った。
「駅前、震災で割れた道路直ったんだな」
 明るい口調の陸に、拓海はそっけない態度だ。
「知らね」
 とだけ返す。
「ご注文は?」
「マッカランをロックで」
 バーテンダーの問いかけに、陸は慣れた様子で注文をした。こういうときに拓海は、陸のことをすこしキザでいけすかなく思う。拓海と陸は同じ二十四歳で会社の同期だ。拓海も大学時代よく酒は飲んだが、大体が安い居酒屋ばかりで、こういった雰囲気のバーにはほとんど来たことがない。酒の銘柄なんてわからないし、とりあえずビールかハイボールを頼んでおけば、なにかしらの酒は出てくると思っている拓海に対して、陸の注文は同い年にしては大人びて見えた。
「で? なにがあったんだよ。お前今日ずっと飲んでただろ。LINEの文面おかしかったぞ」
 オーダーのあと、すぐに陸は拓海に向き直った。
「いいだろ別に。俺がいつ飲んでようが」
 拓海がそっぽを向いてこたえる。拓海は自宅で飲んでいた際、陸に連絡をとっていた。自分でメッセージを送ったものの、なんとなく彼女にフラれた話をするのは惨めで、適当に誤魔化していたら、陸のほうから「どうかしたのか?」と尋ねられた。
「あんまり自分から飲みに誘わないお前が、急に飲みに行こうっていうんだから、そりゃなんかあるだろ。聞かせろよ。友だちだろ?」
 陸のいう「友だち」という言葉に、拓海はすこしだけ反応した。拓海がゆっくり向き直ってポツリと話す。
「美香と別れた……」
 陸が目を丸くさせた。
「え? 嘘だろ? あんなにうまくいってそうだったじゃないか! お前、この前も同期の飲み会に美香ちゃん呼んで『結婚するんだ』ってノロケ話してたばかりだったろ?」
 陸の言葉に、拓海は自嘲気味に笑った。
「『好きな人ができた』んだってよー!」
 そのタイミングで、バーテンダーがロックグラスに入ったウィスキーを、陸の前に差し出した。拓海は陸のグラスを見て、これまたおかしそうに笑う。
「ほい、俺の失恋記念に乾杯しろ、カンパイ」
 そんな言葉とともに拓海は自分のグラスを掲げて見せたが、陸はバツの悪そうな顔をして俯くだけだ。陸が動かないので仕方なく拓海は、自分から陸のグラスに自分のグラスをぶつけに行き、カンッと音を立てて見せた。グラスの中のウィスキーが揺れて、ツンとした香りが拓海の鼻までもを刺す。
「でもさー、女ってのは薄情だよなぁ」
 話題を切り替えるかのように、いくぶんか先ほどよりも明るい声で拓海は語る。
「だってさぁ、三年も付き合ってきたんだぜ? そりゃ俺だって寂しい想いをさせてなかったとは言い切れないかもしんないけど、電話一本で『ハイ、さよなら』はないよなー」
 拓海が問いかけるように陸にいったので、陸はようやく
「あ、ああ……そうだな……」
と返事を返し始めた。
「俺入社して一年経って、ようやくこれからだって思って、実はさ、金貯め始めてたんだよ」
 拓海はわざと、楽しい思い出話をするかのように話している。
「それって……もしかして?」
 陸がおそるおそる拓海に聞いた。
「え? ああ! いやいや、結婚指輪とか、結婚式費用とか具体的なもんのためじゃないけど、まあ、でも、なにかとそうなるにしたって金はいるだろ? だから、ちょっと、な」
「そうか……」
 陸はさらに絶望的な顔をした。
「へへへー、あのさ、いくら貯まったか聞きたい?」
 そんな陸とは裏腹に、拓海の口調はさらに明るくなっていく。
「……いくらになったんだ?」
 陸が尋ねると、拓海は指を五本立ててニカッと笑った。
「なんと、五万円!」
 その瞬間、陸は一瞬ムムと理解に苦しむような顔をしてから、努めて冷静に返事をした。
「全然貯まってないな……」
「そーなんだよ。これが全然貯まらないの!」
 思った通りの反応に気を良くしたのか、拓海は嬉しそうにアッハッハと笑う。
「いや、俺も最初はもっと切り詰めてけば、なんとかなると思ってたんだよ? でもさ、実際やってみると、いまの稼ぎじゃ、生きてくのでほとんど精一杯なんだよな」
 陸は拓海のおどけた様子に少し持ち直したのか、話を合わせ始めた。
「まぁ、俺ら、いっても入社二年目だしな」
「そーなんだよ! 保健やら税金やら諸々引かれると、手取り二十万程度じゃん? そりゃ節約すればって思うけど、実際たまには飲みに行ったりもしたいし。そう考えると大して金は残んねーよな」
 拓海はグイッとビールをあおる。
「拓海は計画性なさそうだしな」
 陸もロックグラスに口をつけた。
「そもそも稼ぎが少ないんじゃ、計画性もなにもねーよ。あーあ、なんかおいしいバイトとかないもんかねー」
 拓海が腕を組んで空中を眺める。普段の陸ならば、ここで拓海の軽口を無下にあしらっているところだが、今日はそれで気が紛れるならとその与太話に付き合うことにした。
「おいしいバイトって……そもそもうち副業禁止だろ?」
 拓海の顔を見ながら、陸がクスリと笑った。
「いや、だから、その給料明細とか、支払調書とか、そういうの出ないような……なんていうの? ちょっと裏のシゴトみたいなのだよ」
 拓海は指摘されたことが恥ずかしいのか、少し焦ったようにこたえた。
「裏のバイト? 死体洗いとか?」
「あー、あったな、そんな噂。アレ、嘘らしいぞ。俺マジで一回検索かけたことあっから!」
「そりゃそうだよ」
 真面目にこたえる拓海を見て、陸がさらにおかしそうに笑った。
「んー、でも、ああいうのはやっぱ嘘ばっかりなのかねー。運び屋とかさ」
「犯罪になっちゃうのはダメでしょ」
「まあなー、さすがに捕まったりするのはナシだわ」
 そのタイミングでどこからか、キャアキャアと女性の笑い声が聞こえてきた。拓海がそちらを見やる。テーブルも合わせると二十人ほどは入るであろう酒場の店内は、木目調のもので統一した調度品で飾られている。そのバーカウンターの奥で、どうやら先ほどの眉毛の細いバーテンダーの男が、女性客二人組を相手に冗談でもいったらしい。先ほど酔っぱらっていた拓海にはムスッとした対応をしていた男が、いまは楽しそうに接客をしている。拓海は少しばかり目を細めて、吐き捨てるように言葉を繋げた。
「女はいいよなあ」
 さっきまでの明るい口調と違い、少し呪詛めいた語調に陸が拓海のほうを見た。
「なにが?」
「だってさ、引く手数多じゃん。お前よ、男がナンパされてるとこ見たことある?」
 拓海が陸を見返す。
「逆ナンってこと? いや、俺はないなあ……」
「だろ? でも、女がナンパされてるのはよく見るじゃん?」
「たしかにな」
「つまり、この世は男女の需要に大きな差があると思うんだよ」
 いわんとしてることが、順々に展開していくのが気持ち良いのか、拓海の講釈は続く。
「だって、そうだろ? 美香の件だって、俺はいまこうして野郎と二人寂しく飲んでるのに、なんであいつにはもう次の相手がいるんだよ」
「いま一緒にいるとは限らないじゃないか」
 陸のツッコミには乗らず、拓海はさらに饒舌になる。
「繁華街を見ても一目瞭然だろ? キャバクラにガールズバー、街中女を売る商売ばかりだ。男を売る仕事は? せいぜいホストくらいだろ? それだってキャバクラよりはるかに少ない」
「まあ、そうだな」
 若干気圧されたように陸は同意する。
「風俗なんてその最たるもんじゃないか。女が男を買う風俗なんて、小説くらいでしか聞いたことがない。需要がないんだよ。需要があるなら、とっくの昔に街には女性用風俗が乱立してるはずだ。でも、あるのは男が女を買う風俗だけ」
 拓海はそこで一度ビールを飲み干した。そして、続ける。
「俺が女だったら絶対に風俗で働くね。セックスして金まで稼げるなんて、最高の職業じゃないか!」
 そういって、芝居じみた感じにグラスをカウンターにドンッと置いた。
「げー、なんかお前、オッサンみたいなこといってるぞ。酔いすぎ」
 陸はちょっと引いた風だ。そのあと、すこし天井を見上げてから、思い出した様子で「あっ」と声をあげる。
「お前のいうのとはちょっと違うけど、セックスして金を稼ぐ仕事、男にもあるにはあるぞ」
 拓海が目を輝かせて陸に顔を寄せた。

※ストーリーの構成を練ってから書き始めて、だいたい2年くらいでしょうか。はじめての試みですが、ご支援いただきましたら幸いです。
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