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コロナのある世界を生きる

目が覚めたとき、僕は新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込める慣れ親しんだ世界にいた。しかしほんの数秒後、急に息苦しさに襲われた。そうだ……コロナがあるんだった──そう思い出したからだ。

僕はCOVID-19のある真新しい世界を生きている。

すぐ手に取ったiPhoneには、今朝も新型コロナウイルスに関する最新ニュースがたくさん入ってきている。ここが新しい世界だということを知らせている。最近ずっと寝泊まりしている新宿のオフィスの、通りを挟んだすぐ向こう側には東京都庁がある。そこで毎晩、小池都知事が会見を行っている。

自分はそれなりに元気に暮らしていると思っていた。しかし、夢から目覚めたばかりの無防備なカラダは、この得体の知れない事態に怯えて、「空気が吸えない、息が苦しい」と訴えている。

正しいメッセージと正しくない自分

《あなたが家にいることが、だれかの命を救うことにつながります》

とだれかが言っていた。その通りだ。筋が通っている。僕はその根拠を理路整然と説明出来る。でも、つまりそれは、僕が街を出歩くと誰かを殺すことにつながる、ということだ。僕が誰かを殺す? よく意味が分からない。

《オンラインでも出来ることはたくさんあります》

とだれかが言っていた。当たり前だ。しかし課題を解決するのは手段や手法ではなく、人だ。オンライン独自の発展の形があるのは言うまでもないが、リアルな場で出来なかったことまで可能になると考えるのは行き過ぎだ。

目がこうあるでしょう。そうするとあなたの魂が目を通してすうっと外側のほうに出かけていく。すると外側のほうから、何か鳥のようなものが飛んできてて、魂の鳥のようなものが飛んでくる。そして魂のなかにすっと入ってきますか。そのために目が通りやすい目でやっていますか。
(大野一雄『大野一雄 稽古の言葉』フィルムアート社)

決してアイコンタクトの出来ない相手と、僕はどこまで心を通わせることが出来るだろう。

人を励ます前にやるべきことがある

話す仕事なのに、話す機会がめっきり減った。毎年4月は暇な時期なのだが、それでも気分は全然違う。

YouTubeでLIVE配信をしたり、オンラインの場を開いたり、収録した動画を配信したりして、僕なりに「話すこと」に取り組んでいる。前にやっていたラジオ番組の続編も始めることにした。こうして色々やっているのは、僕にとって「話すこと」は自分の持つエネルギーやリソースを他者にシェアする単刀直入な手段だからだ。

だれにでも励ましは必要だ。だから僕を通して場づくりを学ぶ人たちに「場をつくるなら励ましのエネルギーのある場を」と伝えている。励ましは目的ではなく各々の対象に取り組んだ際の結果だが、励ましが起こるためには場をつくる当事者が自分の真実を生きていなくてはならない。

そういう意味で、この新しい世界で僕は、このラインを外しつつあった。

なんとなくオートマチックに励ましワードを話している自分に気付いたのだ。これでは見せかけだ。中身が、真実のエネルギーが存在しないのだ。

一旦総てが括弧に入った

コロナのある世界で生きるようになって、一旦これまでの総てが括弧に入ってしまった。

《この事態は過去の◯◯と同じです》
《当面は一人ひとりが気をつけて生活していくしかありません》
《もう後は祈るしかないですよね》
《1年か1年半経てばワクチンが出来て普通の生活に戻れますよ》
《世界が変わったんです、気密性の高いビルの価値は暴乱するぞ》
《経済が死んでしまう、感染しなくても自殺する人が増えるでしょう》
《確かにピンチですが、ピンチはチャンスなんです》

どれもこれも、そうかもしれないし、違うかもしれない。

環境や条件や生活の総てが括弧に入った。そしてここが重要な点なのだが、その際に、どうやら僕自身も括弧のなかに入ってしまったようなのだ。括弧のなかからでは、括弧の外からの俯瞰した視点は得られない。俯瞰した視点が得られない。渦中でモノを考えるのは難しい。洗濯機に放り込まれて水流で溺れかけているのに、「洗濯機の仕組み」を解説することなど出来るわけがない。

コロナのある世界を生きるための言葉

「元気メーターがあるとして、10段階でどれくらい? 1が死にそう。10が幸せで飛べそう。いまいくつ?」

中高生の居場所をつくっていた時に、よくこんな風に質問していた。彼らはその時々の言葉にならない内面を探りながら「6と7の間くらい! いや、5くらいかな…」とか「3。でもきのうまでは2だったんだよ」とか、それぞれ答えた。
いまの僕はレベルいくつくらいだろう? いまのあなたは元気レベルいくつ?

括弧のなかにいて世界をうまく認識することが出来ないと、言葉を紡ぎ出すのに時間がかかる。僕は正直に語ることに人生をかけてきた人間だが、自分の内側に深く潜ってみても、ひとまとまりの意味のようなものを見つけることが出来ない。言葉に出来ないのだ。完全に新しい世界に放り出されて様々な意味を見失い、僕は自分の言葉を失っている──と、そう自覚したら、呼吸が楽になってきた。繊細さが戻ってきた。

高速に回転する頭脳が導けるのは、記号としての言葉だ。考えて答えが出ることは考えればいいから簡単だ。しかし、自分自身の内側で感じていることを表現するためには、深く繊細に感じ取るしかない。また大前提として、われわれは暮らしの中で多くのフィーリングを得るが、その大半を言葉に出来ずに各々の人生を終える。言葉になるのはほんの一部なのだ。

そのほんの一部の言葉を丁寧につかって、僕は生きていきたい。

嘘の言葉で語ることは、自分を粗末に扱うことだ。自信が失われ、表情がぎこちなくなり、いつしか存在しない他人を演じることを自分の人生だと思い込む。言葉を求められることは多いが、嘘の言葉で語るのはやめよう。それは何も生み出さない。
真実の言葉は闇を照らす光だ。それを口にするだけで、人は元気になる。その人がいる場を、一瞬で変えてしまう。このようなまったく先のわからない世界に踏み出していくとき、唯一頼りになるのはそうした言葉だろう。

真新しい世界で怯えながらまっすぐに立つ

すべてこれら漸移のなかのさまざまな過程に従つて
さまざまな眼に見えまた見えない生物の種類がある
この命題は可逆的にもまた正しく
わたくしにはあんまり恐ろしいことだ
けれどもいくら恐ろしいといつても
それがほんたうならしかたない
さあはつきり眼をあいてたれにも見え
明確に物理学の法則にしたがふ
これら実在の現象のなかから
あたらしくまつすぐに起て
(宮澤賢治『小岩井農場 パート九』)

真新しい世界にたった一人で立つのは、不安で、寂しくて、それでいて光輝く行為だ。でもあまりにもこの世界は新しすぎて、少し時間がかかる。それまでは、この薄ぼんやりとした世界をさまようのも仕方がない。
でも、嘘の言葉で語ったりしないし、感じてもいないことをあたかもそう感じているかのようにふるまったりもしない。僕は、目に見えないウイルスに注意するのと同時に、自分自身にも注意を払わなければならない。もう一度胸をはって大地を踏みしめ、自分らしく姿勢を正すまで。


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