《往復書簡》大崎清夏より④

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金川晋吾さま

 こんにちは。台風19号が去って、突然の深い秋ですね。私は季節のなかで秋がいちばん好きです。空気が冷えてきて、汗をかかなくなった自分の肌の状態が好きで、この肌の上にどんな服を着たいかとか、どんな化粧品を使いたいかとか、そんなことばかり考えてしまいます。(それで散財しがちです。)
 性やセックスについての個人的な話を話したいという気持ちを、私も自分のどこかに実はかなり強く持っている気がします。金川さんと話していると、その気持ちが引き出されてきます。金川さんの欲望の磁石に引っぱられる感じ。
 以前、大阪で取材の打ち上げをしていたとき、ヌード写真の話になりましたよね。私は自分のヌードを金川さんに撮られることは考えられないなあ、とあのときしみじみ思ったのですが、それはなぜだろう?と細々と考え続けていました。自分の裸を他人、というか男性(?)に見せる(見られる/見てもらう)ことが、私にとって「性的な関係を持つこと」の一部だからかな、と今のところ思います。もし女性(?)の写真家に撮られるとしても、「裸を見せる(見られる/見てもらう)」という関係になった時点で、その女性と私との間には何らかの性的な関係が生まれることになる気がします。相手のセクシャリティがどうあろうと、その人と性的な関係になってもいい、と私が思えなければ、どんな性の写真家にも私はヌードを撮ってもらうことはしないだろうなと思いました。
 自分がヌードを撮る側の立場になることを考えてみると、越権行為という言葉が浮かびます。不要な権力を握らされてしまう感じというか……。私だけが服を着ていて、そしてカメラを持っていて、相手は裸で何も持っていないという状態を想像すると、なんだかアウシュビッツのような光景や関係性をイメージしてしまいます。前回の手紙で、金川さんは、撮られた自分のイメージをみることがおもしろいと書いていましたが、そのおもしろさについてもう少し詳しく教えてもらえませんか?

 「書くことの魅力を内側の出来事と外側の出来事が平然と並置できてしまうところに感じている」というのは、私も同感です。以前、ある小説家が「自分のいちばん内側には外側がある」と言っていて、なるほどその通りかもしれないと思いました。それは厳密な意味での「トラウマ」のことなんだと思います(最近ドイツ語を勉強していて、トラウマはドリームと同源なんだよなと改めて認識しました。思いだせないこと、記憶の床下にしまわれた記憶を表すことばと、叶えたい願望を表すことばが、同じ根をもつこと)。でも写真という表現には、内側がそのまま外側に露出してしまっているようなおもしろさがありますよね。
 私がいま小説を書いているかどうかは秘密なのですが、詩を書くのは小説を書くよりも自分にはうまく(より容易く)できる、という実感はあります。あまりごちゃごちゃいじらず、力みを抜いて、水を流すように書けたときほどいい詩になる気がします。
 私の知り合いの詩人には、エッセイを書くときも小説を書くときも自分は詩として書いているのだ、という人が何人かいます(私も最近、そう思いはじめています)。三角みづ紀さんという詩人の『隣人のいない部屋』という詩集が私はとても好きなのですが、この詩集におさめられた詩はどれも欧州で三角さんが暮らした日々の断片的な日記のようにも読め、でもやっぱり詩なのです。金川さんがもし詩をお書きになったら、ぜひ読んでみたいです。

10月16日
大崎清夏

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遊びながら祈っています。笑いながら怒っています。詩集に『指差すことができない』(中原中也賞受賞)、『新しい住みか』(青土社)ほか。noteは、未だ見ぬエッセイ集の公開編纂のような気持ちで。(カバー写真・渡邊聖子)
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