《往復書簡》 金川晋吾より②

大崎清夏さま

 こんにちは。

 大崎さんが書いていた「泥棒的なものが入ってくる可能性は想像力を活用すれば十分ある」っていうところ、すごくいいなと思いました。自分はこういう文章が、もしくはこういうことを言う人が出てくるような文章が書きたいのだと思います

 なぜ写真なのかということですが、僕はいろいろある表現のなかで写真にもっとも魅力を感じてやろうと思ったわけではなかったと思います。いくつか試したなかで、これなら自分にもできるかもしれないと最初に思えたのが写真でした。
 自分が表現というものに興味をもったきっかけは音楽でした。楽器をやろうとしたこともあったけど、音がちゃんと出るようになるまで練習を続けることができずすぐにやめてしまいました。
 大学では映画部に入って映画を作っていましたが、事前に構想を練って脚本を書くということが全然うまくできず、撮影の最中からこの映画はけっしておもしろいものにならないだろうという気持ちがあり、実際出来上がったものもなんでこんなものを作ろうと思ったのかよくわからない、あまりよくない意味で自分にも得体の知れない映画になりました。
 小説にかんしては、そもそも文章に対しても苦手意識があり、物語を考えたりすることは全然できなかったので挑戦しようという気になったことすらありませんでした。
 絵や彫刻など手で作るものは論外でした。手先は全然器用ではなかったし、自分の手で何かを描いたり作ったりするなんてただただ途方もないことであり、面倒くさくてやる気が起こりませんでした。
 それに比べて、写真はまず対象ありきであり、撮影者は自分のなかから何かを出さなくていい、自分から考え出さなくていい、考えるのは後からでいい、ほとんどのことを機械がやってくれる、シャッターを押すだけでとりあえずひとつの完結したイメージが出来上がる、そういうところが自分に合っていたのだと思います。
 
 自分の場合、文章を書くとき、実際にあったことを書こうとするか、実際にあったわけではないことを書こうとするかによって、書くときの意識が全然ちがってきます。意識がちがうというか、実際にあったわけではないことを書こうとしてもうまく書くことができません(このことをフィクションという言葉を使って言うこともできるかもしれませんが、自分はフィクションという言葉を把握しきれていなくてうまく使えません)。
 大崎さんが詩を書くときには、それが実際にあったことかそうでないかみたいなことは問題になっていますか? 大崎さんも初めは小説を書いていたとお聞きしましたが、小説を書くときと詩を書くときとでは、書くときの意識というか態度のようなものにちがいがありますか?
 
 僕はすらすらと文章を書くことができなくてひどく時間がかかってしまいます。それはそもそも自分は文章を書くのが得意でなくて言葉にするのにかなりもたついてしまうからなのですが、それだけではなくて、言葉が文字として残ってしまうということに対してかなりびびってしまっているから、なかなか書けないということもあると思います。今回大崎さんとこうやって書き言葉でやりとりをしようとしてみて、そのことを強く感じました。なんとなくはわかっていたつもりだったのですが、これまではそのことに対してまあしょうがないでしょうというか、そういう態度が大切なのだみたいなことを自分でも思っていたところがあるのですが、今回のことでもう少し批判的にこのことを考えてみてもいいんじゃないかと思いました。というのも、こんな調子じゃいつまで経っても全然書けなくて、それは何より自分にとってつらいし精神衛生上よくない!と思いました。何にせよ、何に対しても怖がってばかりいるのはよくないと思っています。

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 ロッテルダムで詩のフェスティバルへの参加おつかれさまでした! 今日、参院選の選挙ポスターを貼る掲示板を駅前で目にしました。もう投票日まで1ヶ月を切っているのですね。本当は選挙のこととかについてもやりとりしてみたいのですが、何を書けばいいのかもよくわからないのでとりあえずお送りさせていただきます! また明日お会いできるのを楽しみにしています!

2019年6月22日の真夜中
金川晋吾

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遊びながら祈っています。笑いながら怒っています。詩集に『指差すことができない』(中原中也賞受賞)、『新しい住みか』(青土社)ほか。noteは、未だ見ぬエッセイ集の公開編纂のような気持ちで。(カバー写真・渡邊聖子)
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