《往復書簡》 大崎清夏より①

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金川晋吾さま

 こんにちは!
 こんなふうに金川さんとぽーんと往復書簡を始めることができて、とても嬉しいです。

 今日、リルケの『マルテの手記』という小説を読みはじめました。
 最初のページに「窓をあけたまま眠るのが、僕にはどうしてもやめられぬ。」(大山定一訳)と書いてあります。この小説の主人公は、窓の外から聞こえてくる犬の鳴き声に喜び、鶏の鳴き声に安心して、眠りに落ちるそうです。ほんとうは私も、いまくらいの季節には窓をあけたまま眠りたいけど、誰か、人間でも、動物でも、虫でも、もし侵入してきたらと考えると怖すぎて無理です。(ああ、でも、いいな! 窓をあけて眠りたい!)人間はどうやったらもっと開放的に生きられるんでしょうね。

 先日お話ししたとき「中動態」という言葉も出てきたけれど、金川さんの写真に写る、誰かがただ「いる」感じ、被写体が動物でも人間でも父親でもただ「いる」、その不変っぷりに、凄みを感じます。
 見ているこちらが(このひとは何を考えているんだろう?)と問うこと自体、ちょっと恥ずかしくなってしまうような、凄みだなと思います。
数年前から、フィカス・ウンベラータ(通称・葉っぱさん)という観葉植物をベランダで育てているのですが、朝起きて、葉っぱさんを見ていると、余裕で1時間くらい過ぎていたりします。いつか、葉が徐々に開いていく動きが見えるんじゃないかと思うのですが、それを知覚できたことはまだありません。
 この、葉っぱさんをただ見ているときの自分の状態が、私はかなり気に入っていて、それは自分も植物側にちょっと参加させてもらうような感覚で、もしかしたら「見て」いなくてもいいのかもしれなくて、ただ葉っぱさんの見えるところに「いる」のが気持ちいいのかもしれません。

 人間界では、誰かが何かを成し遂げることが(世界を形成することが)偉いとされているけど、誰かが何かを成し遂げれば成し遂げるほど、私たちは開放的な生から遠ざかっているような気がします。
 先週だったか、藤沢駅のホームの屋根と屋根の間に降る雨を見ていて、こんなふうに降る雨を、いつまで見ることができるんだろうと思いました。電車がホームに入ってくると、車両のぶんだけそこに快適な空間が生まれて、降って「いる」はずの雨が「ない」ことになるのが、おもしろいなあと思いました。でも、もし駅全体が屋根で覆われてしまったら、そういう物事の移り変わりを見る喜び、窓を自分であけしめする自由のような喜びは、どうなっちゃうんでしょうね。

2019.5.27.
海辺より
おおさき

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遊びながら祈っています。笑いながら怒っています。詩集に『指差すことができない』(中原中也賞受賞)、『新しい住みか』(青土社)ほか。noteは、未だ見ぬエッセイ集の公開編纂のような気持ちで。(カバー写真・渡邊聖子)
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