弾丸とブラックホール

呼んでもないのに、花粉のシーズンが来た。
目と鼻の痒みを抱えたまま、肌着を買いにふらりと外に出た。

そのとき、CMで聞いたことのある、競馬のファンファーレ(※関東G1ファンファーレ)が耳に入ってきた。
横断歩道で、自分の足も同然の自転車とともに、信号待ちの最中である。
隣の自転車のおっさんの口笛だった。

ファンファーレは素晴らしい音程と響きを持って、寒空にもめげず、青信号で機嫌よくペダルを漕ぎだす。
私もすぐ後に続いた。

おっさんの走りは颯爽としたファンファーレとはかけ離れて、定年後の昼下がり、メタボに悩む友人のランニングに付き添うようなスピードだった。
馴染みの部分の、同じメロディーを繰り返しながら、ラブホの横を抜けた。
道幅が狭く追い越しできず、私は引き続き、無害なふりしておっさんの後ろについた。

なんとなく、おっさんを観察する。
水遊びでもするみたいな表面がツルツルで裾がくしゅっとしたボトムスに、昔流行っていた丸い穴ぼこがいくつも開いているゴムのようなサンダルを履いていた。
おっさんの愛車の取ってつけたようなサイドミラーには、反転したおっさんの綻んだ口元が映っていた。

車道を、それなりの密度で有名なロゴの入った大きなトラックが次々と流れていった。
人生の道のりのそれなりの過酷さを経て、おっさんの希少かつほとんど白くなった頭髪が、冷たい風に靡く。おっさんの頭皮ごとめくれ上がらんばかりの危機的状況に、思い出すと夜も眠れない。

単調な直進を続ける。
ややあって、おっさんは左に曲がる気配を見せた。
ここでお別れか。ともにゆく旅は楽しかったよ、ありがとう。
心のなかで私は心にもない礼を言い、隙を見ておっさんを追い越す。
しかし走りはすぐに、前方の赤信号に阻まれた。

ブレーキとともにゆるやかに停止し、次なる退屈をどう紛らわせようかとあたりを見回した。
左折する横断歩道の手前まで行ったおっさんは、束の間すぎる別れを経て、なぜか順路に舞い戻り、私の斜め後方に止まった。
そのうち青になり、おっさんが前方に踊り出る。
再びともに行ける喜びに、寒さも忘れて追いかけた。

にわかにおっさんが活気づいて、どこにそんな性能を隠していたのか、自転車らしいスピードを出しはじめた。
前へ。前へ。前へ。
加速した。
しかし、右手の派手な看板を認めるや否や、急激に「そこ」に吸い込まれていった。
一瞬の出来事だった。
開きっぱなしのアタッカーは、見紛うことなくパチンコ屋の門扉だった。
私は、名のある演奏家と信じていたおっさんが、弾かれたパチンコ玉に為り代わってしまったショックを隠しきれず、しばしペダルを漕ぐのを忘れた。

(第三章第二項「備え付けペーパーホルダーの日常」より抜粋)

(2016年3月2日はてなブログ掲載の記事を修正したものです。)

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