スカーレット

 立春も過ぎれば、寒さが雨に濡れて徐々に暖かい春へと近付く。季節の変わり目の話をしたら「初めて聞きました、詩的ですね」と笑顔を向けられ、小馬鹿にせず聞いてくれるこの人はきっと優しい人なんだろうと思った。彼は春を目前に退職した。今は素晴らしい仕事をしているだろう。
 冬は寒いから憂鬱だと嘯く事ができるけれど、春は何の理由もなく私の気を最も狂わせる。4月から始まる事ばかりの学生時代は必ず出鼻をくじかれるので、春が一番嫌いな季節だ。春が芽吹きの季節なら、それに対して死をおもわずにはいられない。小さい頃から自分がこの世界に存在していないという感覚が、なんとなく付き纏っていた。眠るのが怖かった。目を瞑ったその瞬間に全てを失う気がしていた。

 実は自殺未遂をした事がある。
 その当時は社会復帰なんて出来ないんじゃないかというくらい薬を飲んでいた。家に帰る事もできず、病院に通う事すらままならない状態で、大学すらまともに通えなくなっていた。当時付き合っていた人の家に転がり込んで精神科に通いながら無限にも思える時間を無為に過ごした。その頃は、それでもどうにか何者かになりたいと、外へ飛び出そうと踠いていた、と思う。時系列も曖昧で、記憶がかなり吹き飛んでいる。ある日、何を思ってか処方された薬を一気に飲んだ。そのまま眠りにおちる。気付いたら病院のベッドに収まっていた。救急車で運ばれて胃洗浄を施されたらしい。恐らく死んでしまうような量ではなかったんだと思う。小心者の致死量だった。
 夏でも長袖を着ていたし、オーバードーズも意識が飛ぶまで何度かした。身体中の血管に泥が這い回るような毎日に疲れて、いっそのこと解放されたかった。その度に私の脳は擦り切れていったようで、今でもその時の後遺症はきっと残っているんだろう。先生は統合失調症だと言った。窓辺に寄れば何処から狙われて撃たれるだろうか不安で、壁に身を隠した。外を歩く時は常に背後が気になったし、向こうから来る人が通り魔かもしれない。頭上には他人を写す鏡があって、そろそろ死んじゃえよと囁く。真っ直ぐに歩けない。地面から両足が浮いてしまう。ぐにゃぐにゃとした地面を這うように生きてた。これは本当に生きてるのだろうか。雑に浪費されていく時間が勿体無いくらいに両手から零れ落ちていく。きっとこのまま思考も途絶えて、溶けるように消えてしまうんだろう。それならばいっその事楽になりたい。

 気付いたら、ヒトのフリをしていた。そこに至るまでの事がごっそりと抜け落ちている。生きづらさを飼い慣らして鈍感を身に付けて、光のある方へ手を伸ばそうとした。私は私が生き易い私を、必死で取り繕うようになっていた。私の声を聞いた先輩は「お前、つまんない奴になったな」と言った。病気ではない私にはどうやら価値がないらしい。でもそれは何となくだけれど知っていた事だった。図星だ。そういう奴であるという事がアイデンティティだった。その言葉は未だに私を縛り付ける呪詛のように、切り刻む刃のように、何度も何度もリピートされる。お前には何もない。

 今でも、実は死んだ後の夢の続きなんじゃないかと思う瞬間がある。本当はあの時に目を醒さなかったんじゃないだろうか。言葉にしてしまった瞬間に全てが瓦解してしまうような気がして、声に出す事はできない。やっぱり死ぬのはまだ怖いから。生きづらさには蓋をして、見ないフリをする事にした。夢ならばせめて穏やかな世界になりますようにと、その先を綴り続けるのだけれど。

 でも、これは夢の続き。つくり話である。


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