みんな
「みんなは違うよ」
この言葉が、私は嫌いである。
些細な会話から、この言葉が発されると私は少し悲しい気持ちになる。
私の意見や感性を一般常識の枠組みから外されている気持ちになるからだ。
今はだいぶ大人になったので、みんなと一緒で無くても何一つ悪い事はないじゃないと思えるが、小さい頃はその枠組みから外れるという恐怖があった。
小学生の頃、父には「周りと同じだとつまらない」「地味すぎるから、これにしなさい」とよく言われていた。
私は、物へのこだわりが無い子供だったので、言われるがまま全ての道具の判断を父や母に任せていた。
まず、ランドセルだ。
現在、ランドセルは多様化しており、水色や黄色、ピンクなどのランドセルを身につけている子供は少なく無い。
しかし、私の小学校の頃はまだ「赤」「黒」以外の子供は少数派だった。地域にも、学校にも異なる部分だが、私の少し田舎の学校では少なくともそうであった。
そんな中、私のランドセルは茶色いワイド型だった。
色も違えば、形も違う。今思えば、誰のランドセルより可愛かった自信がある。裏に入っている名前の刺繍へ愛着があり、未だに手放せていないくらいだ。しかし、当時の私はそれを快く思っていなかった。正確に言えば、ランドセルそのものよりも周りから「変な形」と言われるのがとても嫌だった。
子供は素直で、語彙がないのだ。
ただ「珍しい」と思っているだけでも「変だ」と言い換えてしまうし、「不快な気持ち」を暴言で表現してしまう生き物である。身に覚えがある人も少なくないだろう。
また、それを受け取る子供も素直なのだ。
当時の私は、ひどく落ち込んだ。「普通のランドセルが良い」と言うと、父と母は笑った。「つまらない子だな」と言われる度に(つまらなくて良い)と思った。
話を戻すが、この時私に向かって1人の男の子が「女の子は、みんな赤色のランドセルだよ」と言った。まず、私が茶色の時点でみんなではないのだが、私以外のみんなだとしよう。そんな訳が無いのだ。
言葉の綾だよ〜〜、と言えばそれまでだ。しかし、当時の私は非常に違和感を感じた。
そもそもみんなって誰?
と。
共通認識のみんなではないのだ。
貴方の「みんな」と私の「みんな」は違うでしょう。
私は、「みんなって、世界中の?」と返し、言い合いが始まった。
こんな些細な小学校らしい喧嘩、どちらが勝ったのか、今はもう思い出せないけれど、この時から21歳になっても私は「みんな」と言う言葉を使われる度に嫌な気持ちになる。
嫌だと思う理由は、他にもある。
主語を大きくする事で自分を守っている感じが私は気に食わないのである。
私はこう思う、私は好きではない、私は…と、自分の考えなんだから自分を主語とすれば良いものの、なぜそんなに大きい主語にしてしまうのか。
自分の発言に責任を持たずにまるで「正論」かのように聞こえてしまう魔法のフレーズを簡単に使わないでほしい。
しかし、大人になって「みんなって誰?」なんて言って言い合いをする事はない。
心のどこかでは不信感を覚えながら、平然と話している。
しかし、私は「みんな」が嫌いなのだ。
器の小さい人間だと思われてしまいそうなので、日常生活でその話を出すことはないが、みんなのみんな、はそれぞれ違うと言うことを考えてほしい。
そう思いながら、noteに呟いて満足をする。
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