フハハハ、この記事は「エイハブ」の感想だあっ

猿渡哲也「エイハブ」はハーマン・メルヴィルの小説「白鯨」をモチーフとした漫画作品だ

「白鯨」において、巨大なクジラ、モビー・ディックを追う船長エイハブの狂気じみた姿は「メタルマックス2」のビイハブ船長や「ロマンシング・サガ3」のハーマンなど、多くのキャラクターのモデルになっている

余談ながら「ウィザードリィⅥ」に登場するNPCクィークェグなども「白鯨」の登場人物をモデルにしたキャラクターだと言えるだろう

捕鯨という「戦い」

◆死と隣り合わせの「戦い」……!

「エイハブ」で描かれるのは、鯨油産業において捕鯨に勤しむ船乗りたちの姿だ
漁は年単位で陸を離れ、ヒトよりも遥かに巨大なクジラを相手に銛を突き立てる
当然、クジラも痛みに暴れまわり、運が悪ければ暴れる鯨によってヒトのみならず捕鯨船までもが沈みかねない
まさしくお互いにとって「死と隣り合わせの戦い」といってもいいだろう
死を目前にした状況という意味では、ヒトもクジラも同じなのだ

猿渡哲也「エイハブ」より引用

◆狩るものから狩られるものへ……!

クジラを狩っていた捕鯨船だが、そこにあらわれるのが超危険巨大クジラ、モビー・ディックだ
さながらホラー映画のごとくに登場し、次々と船員が犠牲になっていく
エイハブ船長もまた、モビー・ディックによって片足を食いちぎられ、漂流の憂き目にあうこととなる
象徴的なのがモビー・ディックの「眼」だ
深い淵のように虚ろでありながらも、人間のような「眼」

怪物としての「怖さ」とはすこし違う、なにか他の感情を抱かせるような「敵対者」としての姿が「眼」の描き方にこめられているように思えた

◆クエーカーとは

ここで注目したいのが、エイハブ船長が「クエーカー」であるという点だ
クエーカーとはキリスト教の一派で、作中に語られるように、良心的な「平和主義」を掲げている
エイハブ船長もまた敬虔なクエーカーである

しかし一方で、クエーカーは自らの神秘体験による「啓示」を良心の拠り所とする側面もあるそうだ

エイハブ船長がクエーカーであることを考えると、漂流中の極限状態でみた幻覚を「啓示」ととらえたことが理解できる

◆クエーカー(平和主義者)の「戦い」

しかし待ってほしい
捕鯨という「狩り」は暴力的ではないのか。平和主義とはいえないのではないか
事実「エイハブ」において、モビー・ディックは捕鯨船を「鯨に害なすもの」として襲撃しているかのように描かれている

しかし人間側からすれば、そのような「鯨側の心理」はわからない
むしろ「神によって人間は地上の全ての動物を支配することを許された」という視点で捕鯨を行っている

だとするならば、ここにエイハブとモビー・ディックの間に共通点が生じてくる

それは「害なすもの」への反逆であり「死をもたらすもの」に対して、生きるための戦いを挑むことだ

猿渡哲也「エイハブ」より引用

◆「神」=「苦しみの元凶」への反逆……!

捕鯨船を襲うモビー・ディック
船員のなかにはモビー・ディックを不可侵の「海の神」とみなすものもいる

しかし漂流の憂き目にあったエイハブ船長はこう考える
もしモビー・ディックが神であるならば、敬虔なクエーカーであり命がけの稼業にいそしむ船員をどうして襲撃する?

彼等はただ懸命に生きているだけだ

それを苦しめるものが「神」であるわけがない
よしんば「神」であろうとも、人間を苦しめる神など必要ない

そして、もし本当にモビー・ディックが神であるならば、この戦いは生きるための「神の試練」であり、モビー・ディックを狩ることが自分にとっての生きる使命であるのだろう

エイハブ船長はこう考え、モビー・ディックとの戦いに狂気をつのらせていく

ヒトもクジラも生きているんだ

◆「地上の支配者」という「神」

どうして襲撃する?
彼等はただ懸命に生きているだけだ

この一語を「狩られていく鯨たち」に当てはめるとどうだろう

人間は地上に生きる全ての動物を支配することを「神」に許された
もしそうならば、鯨を苦しめる「神」など必要ない……!

そう、モビー・ディックもまた、捕鯨船への襲撃を「生きるための戦い」ととらえていたのではないだろうか

◆「神」という「死をもたらすもの」

エイハブ船長とモビー・ディック
この両名の姿こそ「神」という「死をもたらすもの」にたいして「生きるための戦い」あるいは「生きるという戦い」を具象化した存在なのではないだろうか

そして、どちらもが「生きるという大義名分」を掲げたとき、そのどちらもが「正しい」ゆえにお互いの戦いは避けられないものとなる
それは戦争という「争い」が生じることでもある

捕鯨によって命をつなぐ「稼業」としての「船の平和」か
捕鯨船という外敵のいない「海の平和」か

「エイハブ」は、聖書のアハブ王を引き合いに出し「支配者同士の戦い」という「戦争」を婉曲的に表現している
「これは狩りの道具なんかじゃない。お前を倒すための兵器なんだ」というエイハブ船長のセリフが、そのことを暗に示している

猿渡哲也「エイハブ」より引用

◆「死に向かうという正しさ」……!

「死なないで生きろ」と人は言う
しかしそれは同時に「死に向かうふるまいは正しくない」「生きるという正しさのためならば戦え」と言っているに等しいのだ

この「生きるもの同士の戦い」という命題に対して、じつは物語冒頭で「ひとつの答え」が提示されている

漂流中の極限状態。エイハブ船長は死に瀕した船員に対してひとつの提案をする
それは、みずからの命を差し出し、相手に「生きろ」とうながすものだ
もちろんそれは単純な自己犠牲ではないだろう
みずからの「死」に意味をもたせようとする、人間特有の、物事に対してなんらかの意味を持たせようとする「迷妄」といってもいい

そしてそれは「啓示」という直感、いわば「直感という迷妄」に対しても言えることだ

もしもエイハブ船長がみずからの死期を受け容れていたならば、捕鯨船の面々は命をつなげていたかもしれない
もしもモビー・ディックが、ヒトの稼業のため狩られていく鯨を受け容れていたならば
もしも漂流していたエイハブ船長が、サメに糧としての命を差し出していたならば

しかしそれは「生きるもの」にとっては到底受け容れられない要求だ
みずからの命にさえ頓着しない、死を受け容れた悟りの境地でもなければありえない、傍目には狂気にさえ受け取られる選択だろう

生きることには戦いがつきまとう
ならば、平和を実現するにはどうすればいいのかそして、ひとたび戦うことになったならばどうすればよいのか

そう「エイハブ」もまた、ゴリゴリのバトル・アクションでありながら、猿先生の漫画作品に匂い立つ仏教的思想と「武力と暴力」に対する問いが見え隠れしているのだ

最後に「エイハブ」の単行本における作者コメントを引用してノートを閉じさせていただく

猿先生結構考えてるな

猿渡哲也「エイハブ」より引用

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