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日記(アンネフランクの記憶を読んだ・日記と写真と魂について)

noteを書いていると、容量の少ない脳みそがアチアチのパソコンみたいにオーバーヒートしてしまうので、ローテンションで書く練習をしたい。


最近日記を書くことについて色々と考えていた。
日記には良いことだけを書きたい人もいれば、辛いことも略せず書きたい人もいる。
自分のために書く人もいれば、子供のためや、読む人のために書く人もいる。

私は12歳くらいから19歳くらいまで、日記を書いていた。
好きなノートを選んで、夜寝る前に夜更かしして書くのが好きだった。

20歳くらいからなんとなく書くのをやめてしまったけど、SNSに触れるようになったからかもしれない。
紙の日記は最近また書き始めている。日記みたいな日記じゃないみたいなものを書いている。


最近小川洋子さんの『アンネ・フランクの記憶』をようやく読み終えて、図書館に返しに行った。読み始めたきっかけは、たまたま寄った喫茶店の本棚に文庫版が置いてあり、冒頭を少し読んだだけでこれはじっくりと読みたいと思って、図書館で借りた。


『アンネの日記』はいつ読んだか忘れてしまったけども(小学生高学年くらい?)まだ歴史的な背景をよく知らず、ただアンネという女の子は戦争で死んでしまったらしい、というアバウトすぎる知識で読んでいた。
日記は、続きがあるかのように突然終わる。軍に見つかって連行されることを想定していないからだ。なので、この後どうなったの?続きは読めないの?という納得のいかない気持ちになったのを覚えている。

日記は『親愛なるキティー』という書き出しで始まる。これはアンネが好きだった物語の主人公の名前らしく、想像上の友達に向けて日記を書いているという空想的でお茶目なところが好きだった。母親とうまくいっていないことや、姉とのこと、大人たちの諍い、ペーターのこと、猫のこと、自分の体のことなど、狭い隠れ家での共同生活を包み隠さず面白おかしく書いていた。
読んでいてこんななんでも話せる友達がいたら素敵だろうなと思った。


アンネの日記の影響で小川洋子さんは作家になるのを目指したらしい。
私も日記を書き始めたのはアンネの日記の影響があったかもしれない。
日記を書くことはかっこいいことだと思っていたし、自分を特別にしてくれる手段だった。学校でみんなの前で発表しなくて良いのも気が楽だ。
頭の中をそのまま出すような感じで書いていたと思う。


『アンネ・フランクの記憶』は著者小川洋子さんが、隠れ家のあるアムステルダムとポーランドに行く旅のエッセイだ。
アムステルダムではまず隠れ家を訪れ、アンネの同級生の女性、隠れ家の世話をしていた女性(ミープさん)、アンネが通っていた幼稚園、同級生たちと学校帰りに寄ったアイスクリーム店、日記を買った雑貨店…などを訪問する。
多分『アンネ・フランクの記憶』を執筆した頃の小川さんと、今の私は大体同じくらいの年齢だ。だから小川さんの目線に自分の目線も重ねやすかった。


本では『アンネの日記』の内容にも触れているので、昔読んだ記憶も戻ってきた。大人になって当時の状況やアンネのその後のことを知っていると、隠れ家の生活の過酷さもホロコーストの残酷さもよくわかってしまい本当に気分が沈む。
日記を書いているアンネは辛い状況の中でも、後で思い出して笑えるように、明るく振る舞っていたと思う。まだ子供なのに、たくさんのことを我慢して、息を殺して隠れ家の中で問題を起こさないようにしていた。それでも毎日きちんと髪を巻いていたし日記を書き続け、恋もしたのだ。

小川さんの訪問先にミープさんという女性が登場する。
小川さん一行はミープさんにアポイントメントを取るのになかなか苦労をする。
ミープさんは隠れ家の生活の世話をして、連行された後の隠れ家に立ち入り、真っ先にアンネの日記を拾い集め、保管していた人だ。もちろん当時ユダヤ人を匿うことも犯罪だったから、命懸けの行動だった。
そしてミープさんは日記を大切に保管しアンネが帰ってきて続きが描かれるのを待った。読もうなんて少しも思わなかった。そして帰ってきたアンネの父親に日記を渡し、日記は父親によって公開されることになった。
ミープさんはアンネの日記を守ることで、アンネの魂を守った英雄だ。
”アンネはナチスによって命を奪われてしまったけども、魂は守られた”
”アンネは死んでも生き続けるのが夢だった。その夢は叶った”

本で最も印象に残っているのは、ミープさんと話しているときに小川さんに起こった感覚のことだ。

”アンネはもう死んでいる。
今話しているミープさんもいつか死ぬ。私も死ぬ。
皆死んでしまうのだ。”

”皆死んでしまうのだ” の列に私も一緒に並んでいる。


『アンネ・フランクの記憶』の感想がまとまらないまま、京都に行ってKYOTOGRAPHIE(京都国際写真祭)を観た。


そのうちの一つの展示 石内都と頭山ゆう紀の『透視する窓辺』の展示をみて、
私の中が化学反応が起きたようになった。
『アンネ・フランクの記憶』と『透視する窓辺』が隣同士のパズルのピースになって、ぴったりとくっついたようだった。


石内都さんも頭山ゆう紀さんも「身近な女性の死」をテーマに写真を撮っている。
石内さんは母の遺品を、頭山さんは病気で外を見れない祖母の代わりに風景を撮った。写真になることで新たなコミュニケーションや関係の変化が起こる。
亡くなった人のまなざしを、写真に撮っている。
亡くなった人と写真を撮った人の魂が写真の上で重なっているようにみえた。


その時、日記も写真も誰かの魂であり、その他のたくさんのことやものが誰かの魂なのだという事実にはっきりと気づいた。
着ている服も、料理も、仕事もそうなのだ。
アンネもミープさんも小川さんも、石内さんの母も石内さんも、頭山さんも頭山さんの祖母と母も、私も、何かで魂を守ったり守られたりしているということが、頭の中でぐるぐるし始めた。


展覧会会場は「誉田屋源兵衛 竹院の間」というところで、古い日本家屋で窓は少なく、会場の壁や床の色も暗かった。写真が浮かび上がる空間の中を靴を脱いだ裸足になって行ったり来たりした。
気づいたことについて考え続け、しばらく展示会場から出られなくなってしまった。


私が作っているものは私の魂だし、誰かの作っているものは誰かの魂。
それは何かの形で残るかもしれないし、残らないかもしれない。
自分は自分の魂を、他人の魂を、大事にできているだろうかと考えた。
どちらも軽い気持ちで扱いたくないと思った。


アンネの写真はあまりたくさん残っていないという。それは年齢が低いというのもあるけれど、ユダヤ人は写真を撮ることを禁止されていたからだ。
写真の展示を見ながら、本で読んで知った差別を思い出して憤りを感じた。
こんなに尊厳を傷つけて魂を損なわせる差別があったことが許せない。
ミープさんが回収していなければ日記も軍に廃棄されていた。
バスや自転車に乗ることすら許されなかった。

もう一つ展示を観ながら思い出したほんの内容がある。
アンネの父のオットー・フランクが、解放されて隠れ家に戻った時に拾い集めた豆粒を写真に収めていたということ。
この豆は屋根裏に豆の入った袋(20キロくらいある)を運ぶ際に袋が破けてばら撒かれたもので、全員でそれを拾ったというシーンがアンネの日記に出てくる。
小川さんは、オットー・フランクは豆を写真に撮るときに、きっとその時のことを思い出していただろうと本の中で書いている。


写真を撮って、日記を書いて、思いっきり笑うことがアンネにもできたはずだったのに。


誰のためになにを撮るのか、誰のためになにを書くのか。
それは人によって違うけれど、そこにはその人や誰かの魂が入っている。



鴨川のサギ



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