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善すぎる感覚の活かし方/高校生編


修士論文の硬い文章から解き放ち
自分の過去を振り返る。(読み直すと硬かった)
リハビリが必要なようだ。

はみ出した感受性について考えている時に
思い出したことがいくつかあった。
今日はそのことについて書こうと思う。


1つ目は高校1年生の自分。

高校1年生のクラスで始業式に来ていないクラスメイトがいた。そのクラスメイトは次の週から学校に来ていたが馴染めていない様子。

そらそうだ。高校初日に上級生主催のオリエンテーションがあり、僕たちのクラスもグループができていた。しかし、クラスのみんなは気になっている様子だが声はかけない。

僕はどうしても気になった。
1人でも楽しくないと思っている人がいるのが嫌なのだ。
これも善すぎる感覚なんだと思う。
それにどんな子なのか興味もあった。
友達に声にかけに行こう!と言い、声をかけた。当時(ありがたいことに今も)仲の良い友達と声をかけに行き、輪に半分無理やり混ぜた。

その友達と今も仲が良いなどという漫画のようなエピソードはない。
でも、そのあと保護者懇談会で母がその生徒の保護者から感謝されたと話していたのを覚えている。



2つ目は高校3年生の体育祭の総長を務めた時である。

団の全員に楽しいと思って欲しかった。
どうしても全員に楽しんで欲しかったのだ。
過度な公平性である。

母校の体育祭にはマスコットをつくる係や、踊り、応援団、仮装などと色々な役職があった。

体育祭がメインイベントの高校だった。
だから、ある程度みんなやる気があった。
馬鹿みたいに踊り、馬鹿みたいにものをつくり
馬鹿みたいにはしゃぐのである。

しかし、人によって参加したい度合いが違うことをその頃の自分は理解していた。

前代未聞だと思うが、
クラスメイトにアンケートをとり
体育祭にどんな感じで参加したいのかを聞いた。
社内アンケートかとツッコミを入れたくなる。

その情報を幹部にこっそり伝え、
勉強に集中したい学生も
部活に集中したい学生も
誰も彼もそれぞれの関わり方ができる環境をつくった。

一方で先生に噛み付く馬鹿な別の団の総長
(今も結構な頻度で会うほど仲がいい)
のせいで生徒会が悲鳴をあげ
愚痴を聞き、なだめ。
といいつつ、自分も先生に噛みつき



と、他人中心に生活して、自分がぶっつぶれたわけである。


自分のことをないがしろにして
他人にばかり気をつかい
勉強もしないと!
体育祭の自分やることもやらんと!
でも、あいつも無理してる大丈夫かな、、、


いやいや、疲れる疲れる。
自分大事にしてー!

もう経験したくないつらさである。
パニック発作が起こりまくっていた。


善すぎる感覚の使い損だ。


そこで学んだのだ。
まずは自分第一と。




そこから時がたった今
自分と半径3m以内は笑えるよう
自分がやりたいことを優先で

出来るようにだんだんなり
大学学部時代では、逆に自己中になりすぎ
中立を取るように出来るようになった今である。

公平性を求めるのは大事だけど
自分第一で!

理解しつつも実行できるようになったのは
心の底からやりたいことが見つかったおかげでもあるなぁ。とふと思う。

んー、感謝!


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