見出し画像

プレイヤーとアイテム

 前回の続きです。
 前回はゲームの現象としてゲーム内アイテムを取り上げましたが、今回はプレイヤーの側に視点を置いて扱います。プレイヤーを主語に置いた内容は、次回以降も続くと思います。
 さて、今回も前回と同様に要約を用意しました。話の筋を掴むのに使ってください。以下が要約。

・ゲームに対するプレイヤーの欲も、広義の娯楽性がゲームに持ち込まれているように、現実のものがゲームに対して持ち込まれている。
・特にゲームのアイテムを欲しがる欲は、ゲームでのアイテムの特性と相まって、際限なく膨れ上がる。
・ゲームをするという習慣的行為の延長線上で、イベントを消化するという場合もある。
・プレイヤー自身も、何がゲームでの目標であるかを問われる。

 以上が要約。以下からが本文。

 プレイヤー側からの視点というのは、イベントでのアイテムを得ようとするプレイヤーの動機です。
 外野から見れば、「ゲーム内アイテムには、全く価値が無い」という見方もできるでしょうが、ゲームをプレイしている人間がゲーム内アイテムに全く価値を認めないという事はありません。
 もちろんゲームをしている人間でも、アイテムによっては価値を認めない場合もあります。レアリティが低いだとか、役に立たないからとか、そういった場合です。そのため、より正確にいうのならば、ゲームアイテムには価値があるものとないものとがあり、ゲームアイテムというくくりで判断する事は適切ではない、となります。

 イベントで配られるアイテムの価値も、同様に様々です。価値のないアイテムが報酬にある場合、プレイヤーがイベントに参加する動機は弱いものになるでしょうし、逆もまた然り。
 ただ、ゲームアイテムに対するプレイヤーの「欲望」は際限がありません。より強力な装備(アイテム)、より多くのゲーム内通貨、より希少価値の高いアイテムを欲しがるような心理には、際限がないという事です。平たくいうと、価値のあるアイテムを欲しがる心は必要を知らず、無限に膨れ上がる、という事です。
 ただこのような心理は、プレイヤーがゲームに対しての欲望の全てに当てはまる訳ではないでしょう。プレイヤーがゲームに求める欲望は、全てが青天井という訳ではないのです。言い換えると、無制限に欲望が膨れ上がるものばかりではない、という事です。
 そのようなものの例を挙げると例えば、ゲームでのハイスコアを目指す事だとか、レーティング(段位のようなもの)を上げる事が該当します。これらは、プレイヤーの持つゲームでの目標と言い換えても良いでしょう。
 先に挙げた、ゲーム内通貨を得る事だとか、強力であったり希少なアイテムを求める心理というのも、ゲームでの目標という事が可能でしょう。繰り返しますが、このような目標は際限がなく膨れ上がります。

 対して、ハイスコアを狙うだとか、レーティングを上げるなどの目標にはプレイヤーの前に、しばしば壁が立ち塞がります。プレイヤーの目標が制限されるともいえるでしょう。
 このような目標に現れる制限というのを、才能と言い換えてもいいでしょう。ゲームのうまさの才能、という意味です。才能が、プレイヤーの欲望に対する天井として作用します。
 才能の定義は様々あるでしょうが、ここでは生まれつきの能力を才能として話を進めて行きたいと思います。
 そのような才能というのは例えば、音楽や数学にもあるでしょうし、スポーツや文章にもあるものです。どんなダメ人間でも、あやとりや射撃の才能がある、というような事もあるでしょう。ここではとりあえず、ゲームに限って話を進めて行きます。
 ここではそれら才能のうち、スポーツでの才能を例に挙げてみましょう。毎日のように走り込みをしているAと、対して普段は大して運動もしていないが、生まれつきの体格に恵まれたBがいるとしましょう。この二人が1000メートル走をしたとしましょう。そして、両者の1000メートル走のタイムが、殆ど同じ、あるいはBの方が若干上だとします。
 努力、つまり日頃の走り込みという点ではAが勝って然るべきでしょうが、必ずしもAが勝つとは限りません。
 毎日走り込みを続けているという点、つまり続ける事を才能とするならば、Aの方に才能があるとする事は可能でしょうし、そのような継続する力が才能であるという見方を否定するつもりもありません。ただここでは便宜上、Bのような生まれつきの能力を才能として扱います。これは筆者の立場を反映したものではありませんし、筆者の主義主張を反映しているものでもなく、例え話です。念の為。

 さて、これをゲームに例えてみましょう。ゲームでの「努力」を積み重ねても、そのような努力に匹敵、あるいは凌駕する程の才能が存在する、という事です。
 とはいえ、いくら才能に見放されていたとしても、努力である程度の腕にまで上達できる事も確かでしょう。その「ある程度」がプレイヤーの欲望に蓋をします。つまり、努力ではどうしようもない差が、プレイヤーの欲望に立ちふさがります。
 こう言い換えても良いでしょう。プロになるならまだしも、プロの中でもさらに一握りの伝説級との間に立ちふさがる壁が存在する、という言い方です。
 上達する事だけを目標とするならばさておき、「数字」のみを追及する事にはある程度の上限があります。この「ある程度」が、学年一なのか、学校一なのか、地域一なのか、日本一なのか、アジア一なのか、世界一なのか(くどいか)。ともかく、自分の能力以上の目標をプレイヤーが達成する事は無理です。付け加えると、このような才能を決めるのは誰なのか、という問題もあるのですが、本題から逸れるので省きます。

 こうも表現できるでしょう。つまり、純粋にゲームを楽しむ事(狭義の娯楽性)には制限がないのだが、何らかの目的を達成する事を目標に据えてゲームを遊ぶ場合には、その評価基準によってゲームの楽しみが決定される、という事です。
 何らかの目標をゲームに持ち込むというのは、先程挙げたような世界一なり日本一なりの目標を達成する、というような目標だったり、特定のスコアを出すといったような目標です。
 そして、目標を達成する事(設定する事)と、ゲームを楽しむ事とは排他的な関係にはありません。勝敗を問われれば確かに負けではあるものの、ゲームとしては面白かったといえる事は有り得ます。
 そのため、ここでの「目標をゲームに持ち込む」というのは、結果を絶対視しがちなプレイヤーの心理を反映しています。両者を詳しく取り扱いましょう。

 まず前者の、狭義の娯楽性がプレイヤーの楽しみである場合から。こちらは難しく考える必要は無いでしょう。というもこのような場合は、「やっている事が楽しい」状態であるためです。
 先程挙げたような、勝敗としては負けだが、ゲーム自体は楽しかった、というのも狭義の娯楽性がプレイヤーの楽しみになっている状況に含める事ができるでしょう。
 ただ厳密には「やっている事が楽しい」状態でも、ゲームの内容とは無関係に、プレイヤーの習慣的行為としての楽しみが存在するだけに過ぎない、という場合もあります。しかしこれは、狭義の娯楽性に属する行為ではありませんので、除外しています。

 後者の、「目標をゲームに持ち込んだ」場合も考えてみましょう。ゲームのプレイ自体を楽しむのではなく、ゲームで特定のスコアを出す事が楽しみになる場合は、プレイヤーの楽しみは制限されやすい。
 特定のスコアに到達すれば、ゲームが楽しいものだったと感じるでしょうし、到達しなかった場合はそれほど楽しくなかったという評価を下すでしょう。このような判断が、結果を絶対視しがちなプレイヤーの心理です。
 もちろん、目標を達成できなかったとしても、自分のプレイングの欠点を発見できたり、欠点を克服できていたり、上達を実感するような瞬間に、嬉しくなるような事もあるでしょう。これらのような、プレイングの向上による楽しみや喜びというのは、狭義の娯楽性に含めて良いでしょう。
 ただ、スコアを絶対視し続ける事は難しい、あるいは適切ではないでしょう。ここでのスコアというのは、狭義の娯楽性ではない外部の判断基準という意味です。

 ゲームのアイテムに対しては、このような制限が働きません。特に、アイテムの入手にあたり、難易度の高いクエストやミッションをクリアする必要がない場合には尚更でしょう。例えばイベントの報酬などで、イベントの達成条件が単にログインすればいいものであったり、単純な作業を数こなすようなものである、などの場合です。
 イベントでの報酬となるアイテムも、難易度の高いミッションでの報酬として用意されているものと、同じような機能やレアリティを持つアイテムである必要はありません。前回触れたように、ゲーム内通貨や強化素材を用意する事でも、十分にプレイヤーのイベントに参加する動機足りえるでしょう。

 さて、ここからが本題です。そのようなアイテムを欲しがるプレイヤーの心理を分類しましょう。
 イベントでのアイテムに対するプレイヤーの姿勢から、個々のプレイヤーが持つイベントへの目標を分類します。
 ここでは、そのような目標を大きく分けて二つに分類したいと思います。
・必要なアイテムである場合
・もらえるから欲しい場合
の二つです。

 まず、必要なアイテムであるから欲しい、という場合から取り上げましょう。
 必要なアイテムである、というのは例えば、プレイヤーの現在使用しているアイテムを強化するために必要な素材であるとか、何かしらのアイテムを買うのに必要である場合などです。「ただ単に欲しい」のではなく、何かしらの目的のために必要である場合です。プレイヤーが何かしらの目標を持っていて、イベントでの報酬が、プレイヤーの目的に有効である場合です。
 このような場合にプレイヤーがイベントに参加する事は、問題ではないと判断しました。プレイヤーの設定している目的が、アイテムを欲しがる心理に対する制限として存在するためです。
 ただ、目的が存在している場合でも、そのプレイヤーの目的というのが、「ただ単にアイテムが欲しい」や「なんとなくやっている」というような設定されている場合は後者の「もらえるから欲しい場合」に含めて扱っています。
 ではどのような目的を想定しているのかというと、ゲームクリアなどの目的を達成するものであったり、アイテムを強化するなどの場合です。アイテムの強化というのも、理論上はともかく、現実にできる強化には限りがあります。武器強化も含めて、今まで挙げたような「プレイヤーの欲望が制限される」ような、プレイヤーの目的を想定しています。

 とはいえこのような目的設定も、全く問題がないかというと、そうとは言い切れないでしょう。プレイヤーの目的がそもそも、ゲームの環境として設定されている場合があるためです。
 ゲームの環境として設定されている、というのは以下の通りです。前回に扱った内容と重複する部分がありますが、ゲームがイベントにプレイヤーを参加させる動機を強めるために、普段から(ゲームのバランスとして)入手が困難であるアイテムを設置している場合があるためです。このようなバランスが、プレイヤーの楽しみ(娯楽性)に貢献していればいいのですが、商品性を補助する目的から設置されている場合とを区別する必要があるでしょう。

 さて、筆者が問題にしたいのは、「もらえるから欲しい」という後者の動機です。これを問題とする理由は二つあります。
 第一に、プレイヤーの動機が物欲の延長にあるため。
 第二に、プレイヤーの目的が設定なされていないため。

前者から説明しましょう。前述のように、物欲に制限はありません。物欲というのは、アイテムを求めるプレイヤーの心理です。ゲームに限らず、現実の物体に対して向けられるそれと同等です。広義の娯楽性がゲームに持ち込まれたのと同じように、プレイヤーの欲望もゲームに対して持ち込まれているのです。ただ、ここで扱うのはプレイヤーの持つ欲望のうち、物欲のみです。例えば名声欲などもあるでしょうが、ここでは扱いません。

 話を戻しましょう。
 物欲は制限されないため、イベントを消化(クリア)する事が絶対の目標として据えられがちです。このような状況は、プレイヤーがゲームへの距離感を失っているといえるでしょう。
 ただゲームによっては、プレイヤーが距離感を損なう努力をする場合も存在しますので、一概にプレイヤーの責任であるとする訳にはいかないでしょう。
 ゲームでのアイテムは、プレイヤーの欲望に対応するように無限に現れるのに対して、現実での物欲は、例えば経済的な理由などで、制限されます。
 そのため、イベントに限らず、アイテムを延々と求めるような姿勢がプレイヤーに顕著な場合、前述のゲームの性質との相互作用によって増幅されます。
 何を主張したいのというと、ゲームに物欲を持ち込む事は、ゲームの楽しみ方としては不適当であろう、という事です。ただ、「アイテムが欲しい」というプレイヤーの心理が全て悪であるというのは乱暴でしょう。ここでは個別に取り上げる事はありませんが、例えば、ゲームのアイテムをコレクションするような場合などです。このような楽しみは、個別に考える必要があります。

 第二の問題、「プレイヤーの目的が設定されていない」というのは、なんとなくゲームをプレイしているような状況を指しています。あるいは、「イベントがあるからやっておくか」といった姿勢です。
 なんとなく遊んでいても、あるいはなんとなくイベントに参加する事は問題ではないでしょう。なんとなくやっていて楽しい、という楽しみ方もあるでしょうが、そのような楽しみ方は「作業」と地続きです。ゲームとプレイヤーの関係が逆転しがちであるともいえるでしょう。自分のしている事が楽しみに繋がっているのか、それとも惰性の作業なのかを、十分に注意する必要がある、という事です。このような、「なんとなくやっていて楽しい」という状況は「習慣的行為」と近しいでしょう。さらに踏み込んでいうと、イベントの成功条件がプレイヤーの目的になっているともいえるでしょう。
 
 ただ、ゲーム内イベントが開催されたとなると、内容に依らず、興味を持つ事はプレイヤーの心理としてはおかしな事でもないでしょう。
 そのため、ここで強調したい事は、個々のプレイヤーは、そのような心理と冷静に対峙する必要があるという事です。言い換えると、ゲーム内イベント、ひいてはゲームという存在自体との「距離感」を適切に保つ必要がある、という事です。
 もちろん、人に依って適切な距離というのは、個人差があるでしょう。こればかりは、他人が口を挟んで決められるような問題ではありません。距離感というのはつまり、このアイテムは本当に必要なのか、このイベントを消化する必要は本当にあるのか、転じてイベントには時間や現金を費やすだけの価値があるのか、といった事を考える必要があるという事です。
 ただ、プレイヤーの適切な距離感が、ゲームの進行に必要な時間と一致するとは限りません。そのような判断は、個々のプレイヤーが対応する必要があるでしょう。
 結局のところは、個人の問題です。自分にとってゲームの価値がどれほどのものか、という話に尽きるでしょう。

https://twitter.com/osadas5 まで、質問などお気軽に。