性差、個人差

トイレが撤去されるなどの諸問題を引き起こしているように、性差には過剰なまでに反応する、というのが昨今の風潮である。差別は良くない、というのはその通りだが、区別は差別ではないし、その逆もまた然り。人間に様々な差があるのはいうまでもなく、性差はそうした差の一つであって、全てではない。であるのにも関わらず、どうしてこのように性差のみが強調されるのか。逆説的ではあるが、意思的にせよ無意識的にせよ、性別ないし性差が人間の社会において、あるいはそもそも意識や無意識の領域において、特別な地位を占めているからに他ならない。こうした、性に関する意識の特殊性が、問題をややこしくしている根源にあるように思われる。過剰な反応を引き起こす、と言い換えて良いだろう。人間の様々な差が確固たる問題としてあるのではなく、問題は問題として既にあり、人間の様々な差が程度により要因として係わっているに過ぎない。

従来の性差に対する姿勢のうちに、見直しが必要であるものが含まれているのは確かだが、性差に対する特殊性を盾に、不当に個人的な利益を追求しているように思えるものが見受けられる。個人の利益や自由を、より尊重する社会がより良い社会であろうが、公共の場はそうした個人の自由を最大限に発揮する場ではない。性差はともかく、公共の場は個人差の全てに対応できる訳ではない。配慮は可能だ。例えば椅子だとか天井だとか梁だとか階段だとかの高さは、平均的な範囲に収まらざるを得ない。このことは必然的に、そうした平均的な範囲から大きく外れる人には不便を強いることになるが、大中小で三つを用意するだとかは、空間の問題と経済的な問題の双方に負担をかけることは明白である。尤もこのうち階段の場合、エレベーターなりエスカレーターなりスロープなりの対応は可能だ。トイレについても多目的のものがあるのだから、それで充分ではないのか。ともかく、全ての個体差に考慮した公共空間というのは、恐ろしく非現実である。致命的な不便を強要する可能性があるのであればともかく、出来ないことをやっていない、というのは差別なのだろうか。

仮に、公衆トイレ問題を同性での個人差から捉えてみるとどうなるだろうか。「私のちんぽは大きいので横から他の人に見られないように、そういう身体的特徴の人のためのトイレを用意してください」とか、そういうのが通るのだろうか?それがもし通ったとして、次は「そうした人のためではないところに行くところを誰かに見られると、私の身体的特徴が判明してしまうのでやめて下さい」みたいなものが出てきたりしたら、やはりそれにも配慮しなければならないのだろうか?どちらにせよ馬鹿な話だ。

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