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ゲームとギャンブルとの関係


 前回の内容を補足するような形になりますが、今回はゲームとギャンブルとの関係を扱います。
 最近すっかり忘れていたが、要約を置いておく。

・ゲームとギャンブルとが近く見える理由は二つある。ゲームとギャンブルそれ自体の構造の近さと、ゲームとギャンブルとを近く見る視点の存在

という訳で以下が本文。

 ゲームとギャンブルとが、どのような関係にあるかについて。ゲームとギャンブルの位置とは近い存在である事は間違いない。
 狭義の娯楽性が強いゲーム、ここでは仮に麻雀を例にしよう。
 麻雀であれば、プロ級とそれなりの人とが対戦したとしても、それなりの人が勝つ事もある。運が強く絡むのだ。実力が全く関与しないという事はもちろんないが、実力差をひっくり返す風が吹く事がある。この風が運だ。
 丁半に至っては、ひとまずイカサマの存在を忘れるとして、完全に運だ。このような運の存在が大きい。ゲームでも、丁半のように完全なる「運ゲー」は珍しいだろう。ただ、このように「運」が影響力を持つ事は、ゲームにも共通する部分がある。
 この運というのは程度こそあるが、ゲームにも存在する。これがゲームとギャンブルとを近く見せる原因の一つだ。
 麻雀にはこのような運の力が強く働くため、プレイヤーが自身の勝敗に対して賭けるのであれば、囲碁やチェスよりかは賭け事に向いているといえる。
 ただ将棋や囲碁のように、実力が素直に反映される「ゲーム」であっても、ギャンブルの対象にする事ができる。他人の対局の結果に対して「賭ける」というやり方も確かにギャンブルだが、このようなやり方はここでは除外する。これはゲームの外側で起こる事だ。

賭博とは、賭事(とじ)と博戯(ばくぎ)の二つを合わせた言葉である。
賭事と博戯の違いは、賭ける側の人間が、賭ける対象となる勝負事の結果に当事者として関与できるか否かである。
賭事(とじ) - 勝負事の結果に参加者が関与できないもの
博戯 - 勝負事の結果に参加者が関与できるもの

ウィキペディアより引用

 つまり、運の要素はゲームとギャンブルとの両方に存在し、商品性もまた両者に存在する。これらのような共通点が、ゲームとギャンブルとが近いという根拠だ。

 一度ギャンブルをゲームとみなして、どのような構造であるかを考えてみよう。ギャンブルにも娯楽性が存在する。報酬を得るためには、勝負に勝つ必要があるためだ。そのため、ここで現れる娯楽性は狭義の娯楽性になる。
商品性にあたる要素も存在する。商品性というよりかはもっと直接的に、カネといってしまってもいいだろう。
 カネは娯楽性とほぼ同じ位置、つまり狭義の娯楽性の延長線上にカネがある。娯楽性とカネ(≒商品性)とが、非常に近い位置にあるという事がわかるだろう。

 ゲームに話を戻そう。ゲームよって、娯楽性と商品性との関係は様々ある。基本的には、商品性が強く作用すればするほどギャンブルに近づく。
 まず、商品性が全く存在しない場合を考えてみよう。このようなゲームは、フリーゲームのようなもので、ヤフーキッズにある忌まわしいホームラン競争のゲームや、一部のネット将棋やネット麻雀が近いだろう。商品性が現われる回数は殆どないだろう。広告を消すために課金するなどの場合が存在するとしても、その支払いはゲームそれ自体に対してなされるものではない。
 次に、ゲームの内容を全て買い切るものだ。パッケージ版や、コンシューマーゲームに多く見られる形だ。このようなものは、商品性が現われるタイミングが、ゲームを購入する時の一度のみだ。
 最後に、商品性が無限に現れる場合。無限というのは誇張で、複数回現れるものといった方が正確だ。
 商品性が複数回現れるというのは、ゲームへの課金をする機会が複数回あるという事だ。そのためパッケージ版ゲームであっても、ダウンロードコンテンツなどが存在すれば商品性は複数回現れ得る。
 たとえば、行動力のようなものを回復するための課金というのは、ゲームを続けている最中であれば何回でも現れ得る。行動力以外にも、ガチャやゲーム内アイテムを購入する、などの現れ方もあるだろう。
 これらはゲームの構造を指して使っているので、プレイヤーが実際に課金しているかどうかは考慮していない。ダウンロードコンテンツが機能としては存在していても、全く興味を持たないプレイヤーも居るだろうから、プレイヤーが商品性の強いゲームをしている事それ事態には、何も言及すべきところがない。

 商品性が複数回現れるものが、構造としては最もギャンブルに近い。商品性と娯楽性との位置が近い、というのがその理由だ。他にも、このような説明の仕方もできよう。
 つまり、商品性が現われないものと一度だけ姿を現すものの商品性は、娯楽性に対して外部にある。
 対して商品性が複数回現れるゲームでは内側だ。この部分が、娯楽性の延長線上に商品性(カネ)が現われるギャンブルと近い。

 加えて、歴史的な背景も影響しているだろう。一般的に、『スペースインベーダー』が、始めて商業用のゲームで成功を収めたものだといわれている。インベーダーゲームなどとも呼ばれている。
 そのスペースインベーダーを沢山集めた「インベーダーハウス」という存在が、我々が目にするゲームセンターの原型だ。
 このスペースインベーダーはヒットした。のだが、それに伴いインベーダーゲームを遊ぶカネ欲しさの恫喝や盗難が多発し、インベーダーハウスには近づいてはならぬという「お触れ」がPTAや教育委員会などから発せられた。
 商品性と娯楽性の位置というゲームそれ自体の持つ構造を抜きにしても、「ゲーム=悪」という構造が存在する。つまり、「純粋な子供を侵略するゲームという悪から、無知な子供たちを守る」という力が働いている。あるいは、非生産的なゲーム(≒学校の宿題や勉強をしない)を快く思わない「保護者」の価値観というのが強く反映されているだろう。実際にゲームが非生産的なのかどうかはさておき、恐らく年齢に比例して、ゲームが悪であるという見方が根強くあるだろう。
 この二つが、ゲームとギャンブルとを近い位置に見せる原因だ。後者については、ギャンブルというよりかはもっと抽象的に、漠然とした「悪」である、という方が正確であろう。

  インベーダーゲームに関する記述については、Arcade Fan様よりゲーム年表・歴史を参考にさせて頂きました。この場を借りて、感謝を申し上げます。

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