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ゲームとスポーツ

 ゲームのジャンルとして、スポーツがあります。
 古くは『テレビテニス』、現在ではサッカーや野球などの球技、カーレースをスポーツに含む場合には、車などの乗り物を操作するレースゲームのようなものも、スポーツゲームと呼ぶ事ができるでしょう。
 これらのようなものは、当然といえば当然ですが、そのようなスポーツを模しているに過ぎません。現実のスポーツの動作やルールに比べて、ゲームで再現できる事には限りがあります。ゲームの能力に制約されて、いうなれば見た目が似た別物として現れます。
 少々話は脱線しますが、『テレビテニス』の場合は、スポーツを模したというよりかは、テニスといわれればまあそうかな、という感じのものだと筆者は考えています。テレビテニスの評価はさておき、ゲームのジャンルとしてスポーツがある事に違いはありません。

 話を戻します。
 例えば、野球と野球ゲームとを比べた時に、いくらでも両者の違いを挙げる事が出来るでしょう。野球というのは9人のチーム同士での勝負事ですが、ゲームでは9人のプレイヤーを集めて試合をする、という事は殆どありません。
 対戦以外のゲームモードがあるにしても、プレイヤーは監督であり、球団のオーナーであり、選手であり、観客でもあります。
 加えて、ゲームのキャラクターがいくら走り回ったとしても現実での運動とは違って、プレイヤーが肉体的に疲弊したり、肉体的な疲労に伴って精神的に参るような事はありません。
 
 厳密に考えると、ゲームのやりすぎで頭が割れそうな思いをしたりする事はあるでしょう。それこそ、まるでマラソンの後かのような地獄を経験する事もあるでしょうが、ここでは実際に体を動かして生じたかどうかで、両者を区別します。

 これらが示す事は、ゲームで再現されているスポーツでのプレイヤーの位置が、実に観客的な視点にあるという事です。実際にスポーツをするプレイヤーとしての視点ではなく、それらを俯瞰する位置にあるという事になります。
 この事は同様に、スポーツ以外のアクションなどにも当てはめて考える事が出来ますが、ここではひとまずスポーツに話を絞って扱います。
 
 この場合に求められるのは、表意的なグラフィックです。文字的な、つまり意味が最低限理解できれば十分であり、書道のように字体や字それ自体が美しくある必要はありません。これは美しく見えなくても構わないという意味ではなく、原理的には重視されないという意味です。
 例えば、ドット絵。仮に16ビットの絵があるとしましょう。この絵自体が持つ情報量のみで比べるとしたら、筆者が今適当にA4サイズのファイルを開き適当に絵を描いたとしても、情報量はその絵よりも圧倒的に少ないはずです。
 ただ、そのドット絵が何を示しているのかを理解し損ねる、という事はあまりないはずです。前提知識や、ドット絵が現われる文脈などの助けもありますが、何を示しているのかは理解する事が可能なように、ドット絵は作られます。もちろん、ドット絵がそもそも下手で理解しかねるだとか、現している物体をそもそも知らないなどの理由から、何を表しているのかわからない事もあるでしょう。ここでは、それらのような場合は除外して考えます。前者については書き手の不備、後者については受け取り手の不備であるためです。例えるなら、前者はあまりに汚く読めない字。後者は知らない外国語といったところでしょう。

 全体を俯瞰してみるような、観客の視点で重要なのは表意的なグラフィックです。何が起こっているのかを知る必要があるため、加えて情報量を維持したままキャラクターを動かす事が難しいためです。
 映画やドラマのように、実際に人間を動かす場合とは違い、人間をリアルな状態で動かす事は難しい。
 ドット絵のようなものであれば、いくつかの絵の組み合わせでキャラクターの動作や動きというのを表意的に表す事ができます。
 横ロールアクションのゲームを例に挙げましょう。横スクロールアクションでの操作キャラクターが、障害物を乗り越えるためにジャンプする動作をするとしましょう。ここで求められるのは、キャラクターがジャンプしたという情報です。映画のような、壮大で迫真たる映像を用意する必要は有りません。

 この対極にあるのは、例えばVRのような、1人称の視点で現実を模倣しようという姿勢です。このような立場は、いうなればプレイヤーの視点です。このプレイヤーというのは、ゲームのプレイヤーとしての意味ではなく、観客に対してのプレイヤーという意味です。
 つまりVRのようなものでのプレイヤーの位置は、スポーツを題材にしたゲームでのゲームプレイヤーの位置としての観客ではなく、当事者としての選手たるプレイヤーの位置にある、という事になります。

 スポーツとゲームとの関係に戻りましょう。この場合に、ゲームとスポーツとを繋いでいるのは、原理的にはゲームとは関係のない要素です。
 原理的にゲームと関係ない要素というのは、広義の娯楽性に属するという意味です。この場合の娯楽性というのは、ある種の物語です。実在の車やスポーツ選手、あるいはルールが近いという部分でゲームのプレイヤーは、ゲームと現実が地続きであると感じやすくなります。
 加えて、ゲームを実際にプレイする事が観戦と近いため、ゲームのプレイに際して違和感を感じにくい事と、そもそもゲームと現実とを同一視する事がない事も原因にあるでしょう。さらに、所詮はゲームだよね、という理解や、タイトルの伝統的理解、つまりプレイヤーがリアルな描写やルールといったもの求めているのか、なども影響するでしょう。
 無理やりまとめるとすると、ゲームをやると現実との区別がつかなくなるなどの類は、こじつけに等しい妄言です、という事になります。たぶん。

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