「私、死にたいなんて思ったことなかったからびっくりしちゃって」 | 16歳(2014年)
中学・高校の頃、毎日漠然と死にたいと思っていた。
私立の中高一貫校に通っていたが、本当に馴染めなかった。高い学費を払って通わせてくれた親には大変申し訳ない。中高六年間ほぼ毎年、ひとりぼっちにならないようにするための「友達」と一緒にいる日々だった。その友達がクラスで一人だけのこともあったし、本当にひとりぼっちな時期もあった。
その後どうにか大学で社会性を取り戻し今はそれなりに眩しい業界の端っこで会社員をやれているが、今の心持ちであの中学・高校に戻っても多分クラスには馴染めない気がする。
振り返ると、男子グループは健全に(健全に、という表現が適切か分からないが)カーストがあったが、女子グループはカーストの層がなかった。かなりの陽とかなりの陰の二分割で、間のグラデーションが全くなかった。そのどちらにも居場所はなかった。
それに、文化的な感じが全くなかった。軽音楽部も音楽好きが集まっているとかではなく、文化祭のステージに立ちたい運動部が文化祭前の数ヶ月だけ兼部するところだった。「高校時代に同級生と映画を撮っていた」など文化的な青春エピソードを聞くとそんな世界線があったのかよと目眩がする。
環境のせいか捻くれすぎた心のせいか、とにかく中高六年間は毎日が辛かった。みんなが友達とつるむ休み時間が辛かった。休み時間が来てほしくなくて、嫌いな教科の授業でも「終わるな、ずっと授業が続いてくれ」とチャイムが鳴るまで祈ったりした。特に辛いことがあった日は、きのこ帝国の「風化する教室」を地下鉄の中で目を瞑って聴いて帰った。
青春はおろか、生きているというか、死ぬ勇気がなくただただ息をしている日々だった。
高校二年生の冬、家庭科で編み物の授業があった。
家庭科室ではなく教室で各自アクリルたわしを編むことになり、まわりは席の近いもの同士で雑談しながらたわしを編んでいたが私はいつも通り一人で黙々と編んでいた。
家庭科の先生はおしゃべりなおせっかいおばさん的なキャラで、男子からのいじりにも軽快に抗戦する面白い人だった。その一方でクラスの隅っこにいるような私にも寄り添ってくれ、少し言葉を交わしただけでも懐の深さを感じさせる不思議な人だった。
先生と男子のやり合いに笑わせられながら、窓際の席で冬のあたたかい陽の光に照らされながら編む時間はとても幸せで、いつもとは違う意味で心から「ずっとこの授業が続けばいいのに」と思っていた。
編み物の時間中、手持ち無沙汰になった先生が誰に向けるでもなく最近あったことなどを話し始めることが多々あった。私はその時間がとても大好きだったのだが、ある日先生がどんな脈絡だったかこんな話をし始めた。
「私、前に、精神的な問題を抱えた子たちが集まる学校で教えてたことがあるのね。そのときにある生徒に、『死にたい』って言われたの。私、死にたいなんて思ったことなかったからびっくりしちゃって。」
私は、死にたいなんて思ったことない人が、ましてや大人で、存在していることに本当にほんとうにびっくりしてしまった。
中高時代の私は、世の中の全員が心のどこかに死にたさを抱えながらやり過ごしているんだと本気で思っていた。
その思い込みが、「自分が死にたいと思ったこともなく、日常的に死にたいと思っている人がいることも知ることもなく、成人を迎えた人がいるという事実」によって、大きい風穴を開けられた。
大人になった今は、当時の思い込みは半分合っていて半分間違っていたと思う。底抜けに明るい人が、湿っぽい人よりもよっぽど冷たく物事を考え何かを切り捨てた上に成り立っていたりすることも知った。
でも、大人になるほど、「自分が死にたいと思ったこともなく、日常的に死にたいと思っている人がいることも知ることもなく、成人を迎えた人」の稀有さを再認識もした。
家庭科の先生はどんな人生を歩んできたんだろう。「死にたい」と話した生徒と出会った学校にどんな経緯で赴任することになり、どんな接し方をしていたんだろう。
高校二年生の自分は、「先生、私今まさに死にたいと思っています」と先生に話したかった。けれど、授業後に先生の元に集まる女子の群れの中に混じることさえできなかった。
十七歳の当時と二十五歳の今では、「死にたい」という気持ちと「人生それなりに楽しいな」という気持ちの比率が反転した。
もう名前も思い出せないけれど、十七歳の私に狭い狭い水槽の外にある社会の広さを垣間見せてくれた家庭科の先生には感謝している。
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