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バグース | 15歳(2013年)

 「バグース」という単語を初めて知ったのはネットカフェからでもなくダーツバーからでもなく、中学三年生のときの担任・I先生の口癖からだった。

 バグースはインドネシア語でGoodのような意味だ。I先生が以前インドネシアの日本人学校で教えていたとかいう経緯でI先生の口癖になっており、何か良いことをすると「バグース!」と褒めてくれた。

 I先生は当時四十代の男の先生で、癖の強さと繊細さがぐちゃぐちゃに混じり合っている人だった。


 事あるごとにジャッキー・チェンの話をし(昔は校内でヌンチャクを持ち歩いていたらしい)、学級通信には「氣」の字がたくさん並んでいた。また、どんなに些細な印刷物でもI先生の苗字を新字体で記すことは許さず、旧字体で記すことを校内に課していた。

フォントによっては旧字体に対応していないようで、印刷物全体はゴシック体なのにI先生の苗字だけ明朝体、ということもよくあった。


 中学三年生の始業式の日、I先生は「全員の名前と顔、覚えてきたから!」と言って名簿を見ずに生徒四十人の出欠を取った。本当に最初から最後まで名簿を見ずに全員の名前を呼び終えたけれど、その間I先生の手はずっと細かく震えていた。

 I先生は、一世を風靡したとある芸人が自分の教え子だったのだと話してくれた。絵も上手いその教え子に書いてもらった似顔絵を嬉しそうに見せてくれた。

 その約半年後の秋、I先生の教え子の芸人が交通事故で亡くなった。テレビのニュースでも大きく取り上げられ、事故の様子が生々しく報じられた。私はニュースを見てすぐにI先生のメンタルが心配になったが、次の日I先生はいつも通り気丈にしていて事故について何も触れなかった。

 その後修学旅行があって、行き先は京都・奈良だった。修学旅行後のホームルームで、I先生がお坊さんに書いてもらったという言葉を見せてくれた。「生き急がず、ゆっくりと」というような意味の言葉だった。お坊さん、見抜いているなあと私は思った。

 三学期になっても、出欠を取るときのI先生の手は震えていた。


 私は中高一貫の中学校に通っていたため、そのまま高校に進学した。I先生もそのまま中学から高校に持ち上がり私の学年の別クラスの担任を持っていたが、私が高校一年生のときにI先生は休職してしまった。人づてに、I先生は親の介護に苦労して心を病んでしまったと聞いた。

私は先生の震える手を思い出していた。


 高校を卒業して数年後、同級生のグループチャットでI先生が亡くなったとの連絡があった。

 亡くなった理由は聞けなかったが、まだ五十歳になったかどうかくらいの年齢だったと思う。早すぎる死だった。

 もしI先生が自分自身に対して、苗字の表記を新字体で許せていたら。名簿を見ることを許せていたら。教え子が亡くなった次の日に元気がない様子でいることを許せていたら。もう少し何か違ったんじゃないだろうか。

自分を許さない、ということが、生き急ぐ、ということなのかもしれないと思った。


 社会人になってから、「バグース」は朝までダーツと酒でどんちゃん騒ぎをする場を指す言葉になった。

それでも今でもバグースを見るたびに、ゴシック体の新字体に埋もれるように、か細い明朝体の旧字体で書かれたI先生の名前を思い出して心がぎゅっとなる。



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