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楽曲の定義とは 〜曲が好きとはどういうことか Lv.2〜

半年ちょっと前に、「曲が好きとはどういうことか Lv.1」という記事を書いた。
自分の記事の履歴を見返していて、ああ、そんなこともあったなと思い、続き(続いているかどうかは置いておくとして)を書いてみることにした。

その頃なにを考えていたかは覚えていないけれど、今回改めて「曲が好きとは」というテーマについて考えさせられているのは、そういう記事を書いてみた過去があるからであって、それもここ最近の裏テーマとなっている「見えない力」によるものであると言えるだろう。

少しアプローチを変えれば、因縁という見方ももちろんできる。
そのテーマで書き始めたことにももちろん因があって、つまりはその因をたどった先にあるものが、2019年11月27日の夜の僕の思考を決定づけたということになるのだ。

話が逸れるので、仏教の話はこれくらいにしよう。
(逸れるも何も、まだ線路に乗ってすらいない)

そもそも「曲」とは

やっとここからが本題である。

本題に入った途端、それっぽい見出しがででーんときた。
そもそも、「曲」ってなんなのだろう。
色々と言えてしまうから細かい話は割愛するが、ここでいう曲というのは、「楽曲」のことであろう。

「音」を集合させて「節」をつくり、それをさらに集合させて「楽曲」ができあがる。
もっと細かく区切れるだろうけれど、それももう面倒くさいので割愛する。
専門でない分野のことを語ってボロが出るのが嫌なのだ。

では、好きな曲の「節」は好きなのか。
まあ、たぶん、だいたいは好き、かな。という人が多いだろう。
じゃあ「音」は? となるのが自然な流れだが、そう考えると「音が好きかどうか、う〜ん……音?」となる。

曲における「音」ってなんだ

ドとかミとか、いわゆる音階を示すのか。
ピアノの「ぽろーん」とか、ベースの「べんべん」というのを示すのか。
ギターのなにがしかのコードの「じゃかじゃん」でひとつの音なのか、「じゃか」だけでひとつの音とみなすのか。
そのどれもを切り取って、ピアノの「ぽ」というラの音と、ベースの「べん」という音と、ギターの「じゃか」が組み合わさった、ある1点の音が、曲における「音」なのか。

音だけでも、分析していくとどこからどこまでがひとつの「音」になるのかわからなくなってくる。
ただまあ、どれだったとしても、「音」自体が好きということはあまりないだろう。
(ピアノの音全般が好きということはあっても、ピアノで演奏されたすべての曲が好きということはまずないので、そこはまた話が別である)

つまり、「音」まで分解してしまうと、好き嫌いの話はできなくなってしまうということだ。

そもそも「曲」とは? に戻る

じゃあ「節」くらいの塊にならないと「曲が好き」の話はできない、として。

あなたの好きな曲の、特に好きな一節を思い浮かべてみてほしい。
ギター、ベース、ドラム、キーボードが絡み合って奏でる、サイコーにクールなあの一節(いい感じに描写しようと思ったけど、ここでもボロが出そうなので逃げることにする)だ。
そうそう、これこれ。これだから俺ぁこの曲が好きなのさ。

ここで、立ち止まって考えてみる。
そこには必ずその全ての演奏が必要なのだろうか?
もちろん、それらが揃って奏でられた旋律が何よりも素晴らしいのだろうけれども、では、単純にその音階の羅列は、あなたの「好き」にはならないのか。

ピアノで、ヴァイオリンで、フルートで奏でたとしたら、それは違う曲なのだろうか。
そうなると違う曲だという感覚になる人も多いだろう。

では、同じ楽器で、違う人が演奏したら?
同じ人が同じ楽器で弾くとしても、別の銘柄のもので演奏したら?
同じ人が、全く同じ楽器を使用して、アレンジを加えたら?

同じ人が全く同じ楽器を使って同じように弾いたとしても、本人のコンディション等によってその都度微妙にずれは出てくる。
もっというと、コンピュータが同じように奏でたとしても、湿度とか、あるいは何か媒体を通して聞いたりすれば、聞こえてくるのは違う音かもしれない。

Lv.1の記事でも書いたように、作曲した人、演奏している人、歌っている人が好きだからその曲が好きだったり、あるいはその曲の裏にある背景が好きで好きになったりということもある。
そうなると、上に書いたような一部の条件が変わっても、「好きな曲」であり続ける可能性が高い。

どこからどこまでが同じ曲なのだろう。
あなたの「好きな曲」は、どのラインを超えたときに「好きな曲」でなくなるのだろうか。

楽曲を一つの楽曲たらしめているのは、一体何なのだろうか。

「好き」のルーツで「曲」の枠が揺らぐ

ここで気をつけたいのは、条件が変わった場合の「好き」「好きでない」は、原曲に対するそれと同じルーツにあるかどうか、である。

たとえば「スピカ」好きのスピッツファンが、椎名林檎バージョンのスピカは特に好きでないとすれば、そのスピカ好きは、スピッツが奏でる(歌う)スピカの音(の連続)が好き、あるいはスピッツの曲だから好き、といったところにルーツがあるということになる。

では、椎名林檎バージョンのスピカも好きだったとして、果たしてその人の「スピッツのスピカが好き」と「椎名林檎さんのスピカが好き」が同じ現象としての「好き」と言えるだろうか。
そこに関して言うと、以下の2パターンが考えられる。

【1】上記2つの「好き」が同じものと考えられる場合
仮に、「スピカ好き」のルーツが「その音階で構成された曲」あるいは「草野さんが作った曲だから」とかにあるとすれば、椎名林檎さん(とそのサポートバンド)が演奏して歌ったスピカが好きなのは必然で、「同じ好き」と言える。
つまり、「スピカが好き」という一文で、スピッツのスピカも椎名さんのスピカも、たぶん友人のバンドが奏でるスピカも好きということを全て網羅できる。
【2】上記2つの「好き」が別物と考えられる場
「スピッツの演奏と草野さんの歌を含めたスピカが好き」で、かつ「椎名さんたちの演奏のスピカも好き」だとすれば、それは別の好きであるということになる。
「スピカが好き。椎名林檎バージョンのスピカも好き」と言わなければ、両方を網羅することはできないし、友人の演奏するスピカには見向きもしないかもしれない。

ここで、前述した「一つの楽曲とは」という問いに戻ると、【1】の場合は原曲のスピカも、椎名林檎バージョンのスピカも、友人が演奏するスピカも同じ「スピカ」という曲ということになるし、【2】の場合はそれぞれ別の曲ということになる、と解釈できる。

「曲が好き」の考え方が文脈によって大きくブレることによって、「曲」の定義そのものにもブレが生じるのだ。

これであなたも明日から、知人が「私この曲好きなの」などと言おうものなら、すぐさま追及できる。

「それは、この演奏が好きなの? どこかの節が好きなの? 音の組み合わせが好きなの? それともアーティストが好きということ? じゃあ、私が演奏したらそれは好きじゃないと言うこと? ねぇ、どうなの? ねえ、ねえ」と。

11月も終わりを迎えようとしている。
冷え込むのは、外気だけにしておいてほしいものである。

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