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「孤独の解消」を生涯のテーマに決めてから倍の時が流れて

「僕はこの研究をする為に生まれてきた。この研究を成し遂げ、この研究をしながら死んでいくんだ」という高校生に出会った。17歳の時だ。
2005年の5月、アメリカでの高校生の科学コンテストISEFで、一緒に折紙を折っていた懇親会での出来事だった。

あのことがきっかけで、「私は孤独の解消の研究に命を捧げよう」と誓った。

あれから、17年と6ヵ月が経ち、今日35歳を迎えた。
あの決意した17歳と6ヵ月から、ちょうど倍の時間が経った。
当時の世の中には「早いうちに人生を決めた方がいい。」という声や、一方で「早いうちに人生を狭めてしまうなんてもったいない。」などの意見もあったが、実際どうであったのか。
少し振り返りながらざっと書きたいと思う。


自分の人生をどう使って研究していくか、計画を語る高校生と出会ったのは高校3年の5月、アメリカアリゾナ州で開催されたISEF(高校生国際科学技術フェア)に参加していた時だ。
聞いた瞬間(なんだ意識高いなこいつ。気持ち悪いな)と正直思った。
ただふと自分はどうだと思った時、グラっと脳が揺らぐような強烈な違和感と血がひくような感覚を覚えた。私は今の研究をずっと死ぬまでするのだろうか。自分はなぜここにいるのだろうと。

中学の頃、私はほぼ不登校・ひきこもりだった。
全く学校に行けなかったわけじゃないし、学校自体は嫌いじゃなかったが、クラスの周りに合わせる事ができなかった事、いじめを受けていた事、珍しい事に父親が同じ中学校の教師であった事で学校中から知られていた事、様々な要因で行きたくても行けない場所になってしまっていた。
次第に悪化し、自分は社会の荷物で、いない方が社会の為だと思ってしまう気持ちを隠せなくなっていた。

最もひどい時は中学1年の頃で、無気力で疲れ果ててなにもせず天井を眺めつづけ日本語がうまく聞き取れなくなり、話せなくなり、人に対し謝る事しかできなくなった時はこのまま死んでしまおうかと考えた。理性的な自分はその時、必死に「死なない為の理由」を考えていた。

たまたま師匠と呼ぶ先生との良い出会いがあった事で目標ができ、不登校から復帰し、その師匠のいる工業高校でものづくり三昧の高校時代を過ごし、いつのまにかそろそろ就活で、世間の邪魔にならないように生きていこう、町工場に就職して職人を目指そうなど思っていた高校2年生の後半、日本の高校生の科学コンテスト(JSEC)で優勝し、日本代表として参加した世界の科学コンテスト(ISEF)で、その言葉と出会った。

「僕はこの研究をするためにこの世に生まれた」

あの言葉は結果的に私の人生の変えた。
こいつは「死なない為の理由」を見つけている奴だと思った。

当時の私の研究、”安全かつ快適に走行できる電動車椅子の研究” というテーマで発表していたのだが、死ぬまでそれをやりたいとは考えた事もなかったし、将来の事を考えた事も全くなかった。
あの時、ISEFでは名誉なGrand Award 3rdを受賞したが、その言葉がひっかかり、せっかくの授賞式でも心から嬉しくなく、舞台袖に降りたとき師匠と喜んで抱き合う事もなく座り込んでしまった。

日本に戻ってからもしばらく悩み、わけあって多くの高齢の人や障害をもった人達と出会って話を聞きう、おそらく人生で一番悩んだ1,2ヶ月を経て

「自分が生きる事を諦めるほど苦しんだ”孤独”というストレス。これは私だけの悩みじゃない。これを解消する為の研究なら、残りの人生をかけてもいい。孤独を解消するために生まれてきたと言えるようにしよう。」
と、決めた。

同時に、当時いまより体調が悪かった事、コンタクトでは矯正が効かないほど視力の低下も止まらなかった事から、「人生30歳」とも決めた。
ひとつの事に人生を捧げると決めるのはいいが、その人生があとどれくらいあるのかが解らないと投資しようがない。人生は辛い事の方が多いと思っていたし、終わりを決めておいた方が生きる為に便利だと考えたからだ。

私は17歳で、30歳まで生きれるとしたらあと12~13年ある。
あと1年しかないなら勉強などせず今すぐボランティアでもした方がいいかもしれないが、13年あるなら勉強も研究もできると高専への進学を決めた。

人生の使い方を決めた事で、それまで自分でも恐ろしかった破滅願望に近いものは無くなった。ピタっと止まったわけではなく1,2年くらいはグラグラしていたが。それでもやるべき事を定めたことで、それまで悩んでいた多くの事、将来への不安、他人からの見られ方、人間関係、親や周囲からの期待が些細なものに感じられた意味では、私にとってはとても良かった。

”この為に生きている”と思えたから走れた。
ここからはざっと書く。

その後、入学したが違うと思った高専を1年で辞める判断ができた。
19歳で大学に入り、苦手だった対人スキルをなんとか克服するのに2年を使った。
大学の研究室に入りたいところがなかったので自分の研究室「オリィ研究室」を立ち上げ、プロトタイプと概念を発表した。
「君のそれはロボットじゃない」「研究としてはFだ」「卒業できないぞ」「親が泣くぞ」など言われたが気にならなかった。
JSECの後輩から、「吉藤が死んだあとも維持される仕組みを作った方がいい」とアドバイスを受け、研究室を株式会社化した。
分身ロボットを製品化し、ALS協会や難病患者さんと共同研究し、のちに親友となる寝たきりの秘書として雇った。
ALS患者さんと視線入力での意思伝達の国際特許を取得し、「OriHime eye+switch」として厚労省認定の福祉機器として商品化し、数百人の重度難病の患者さんに届けた。
遠位型ミオパチー患者会と車椅子アプリWheeLog!を立ち上げ、
ALSになった盟友とWITHALSとして視線入力でのイベントや開発をすすめ、そのALSの盟友と寝たきりの親友と3人で「分身ロボットで働く」構想を語り合った。

多くの患者さんや恩師と出会って別れていく中で、秘書であった親友とも別れた。私が29歳。親友は29歳の誕生日が葬式になった。
私も30歳になった瞬間に過労で倒れて入院するが復帰、亡き親友と話していた「分身ロボットカフェ」の開発を、親友の意志を継ぐ形で続行し、30歳のうちに発表する事ができた。

30歳を超え、31歳になった直後に人生で最大レベルの痛い失敗を経て、個人でやる事の限界を悟った。「孤独の解消」を、個人ではなくチーム・コミュニティを作って動く事を決意し、人生30年計画を40年計画に更新した。

様々な出会いや偶然、奇跡もあって2021年6月に分身ロボットカフェがオープン。30名の社員と、30名のアルバイトやスタッフ、70名のパイロット仲間と共に、「例え寝たきりになっても、社会と繋がる選択肢を創り続ける」をテーマに挑戦を続けている。

近年、分身ロボットカフェから企業へ就職する人も現れはじめ、
特別支援学校の肢体不自由中高生らがOriHimeで就労体験できるようになった。まったく学校に通えなかった親友が望んだ世界でもあった。

そういえばISEFで3rd、世界3位を獲った時、いつか本当にやりたい事でこれを超える世界1位の賞を獲ろうと思ったが、それもつい最近アルスエレクトロニカという国際的な賞を頂く事で達成できた。
強く思って走り続ける事はいつのまにか叶うものだ。

命を捧げて一つのテーマに身を捧げる事が、だれにとっても正解とは言えない。そんなものがなくても生きれる方が普通で、普通である事は尊い事だとも思っている。
ただ、死なない理由を決めた事で、語り合えた人達もいる。2013年から一緒に研究しているALSの患者さん達で呼吸器を付けて生きる事を選択する人は、同じく生きる理由を見つける事ができた人達が多かったのは確かだ。

人生の選択に正解はなく、決めた事を正解だと思えるように行動していく事が正解なのだ。

幸い、体調も30代になってからの方が安定している。やればやるほどやらなければいけない事も増える。40歳まであと5年でも足りない気がするが、次にやる事はもう決めた。死ぬまで自分が決めた使命に生き続けたいと思う。

私のやりたい事の為に関わってくれた人、
出会ってきた仲間達に最大限の感謝を。

2022/11/18
吉藤オリィ


追伸:
【オリィの自由研究部(β)】
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日々の挑戦や実験の様子を発信し、資金は全て研究開発に投資していきます


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