見出し画像

よくある話①

彼女の「自分を大事にすべき」というありきたりの言葉に笑うしかなった。何もかもがありきたりの話で、誰も気にもとめないほどの話でしかないのに。不倫が世の中にどのくらいの割合で存在しているかは知らない。絶滅危惧種とは言えないくらいには存在しているだろうことはわかる。

私が20歳の時。
友人が彼氏と同棲していたアパートに浮気相手を連れ込んで追い出された。その彼氏は本当にかわいそうだと思った。毎日毎日朝から夜まで一生懸命働いている間に、無職の彼女はバンドマンと部屋でよろしくやっていたのだ。気付かないうちに最愛の彼女が他の男と抱きあったベッドでずっと過ごしていたのかと思うと、どんな言葉をかけたらいいかもわからない。結婚のために貯めていたお金もバンドマンに貢がれていたらしい。
そのバンドマンがやっているライブには一度無理やり連れていかれたことがある。今までに入ったことのないような小さなライブハウス。100人なんてとても入らないような本当に小さな場所。彼女がカッコいい、完璧ともてはやしたライブは曲もつまらない。歌詞もつまらない。何より歌も演奏も子供のお遊戯会の方がまだマシ。チケットを押しつけられて付き合いで来ているとおぼしき人の群れの中で、彼女だけがひたすらにはしゃいでいた。メジャーデビューしたらいいのになって。絶対に無理。デビューできないバンドマンの話なんてよくある話。
その後友人とはすぐに縁を切った。連絡先はすべて消したし、どこかですれ違う事はあっても声をかけることもしなくなった。噂ではそのバンドマンからも結局捨てられて地元から少し離れたところで一人暮らしをしているらしい。
バンドマンと結婚して慎ましやかながらも幸せに暮らしてると締めくくられたら物語としてキレイかもしれないのに、捨てられて終わりとかあまりにもありきたり過ぎて反吐が出る。どちらに転んでも結局のところありきたりな展開かもしれないが。

それから3年後の23歳の時。
5年付き合った彼氏から別れを切り出された。大学を卒業して就職してお互いが落ち着いたら同棲して、資金がたまったら結婚式をあげようと話をしていた。けれども、それぞれ違う業種に就職してから会える時間はとれなくなっていた。環境が変わったことによりお互いストレスがたまっていたため口喧嘩も増えていた。だから別れたいのだろうと思っていた。そう思いたかった。
そうではないことは友人からのリークでバレた。別れを切り出されて、けれどすぐにのみ込むこともできずに友人に相談した。その時に友人がためらいながら教えてくれた「…女と親しげに歩いてるの、見たことあるよ」と。
彼とその友人は職場の最寄り駅が一緒だった。けれど出勤の時間帯が違うのでほとんど会うことはなかったらしい。彼は19時までには帰宅できる企業に勤めていたし、友人は終電が当たり前の業種だった。いるはずのない時間帯に見覚えのある顔があって気付いたのだと友人は言った。終電近くで人通りが少なくなっているとは言え、駅前の通りを親しげに腕を絡めながら歩き別れ際にはキスをしていたと。
往来で手を繋ぐことさえいやがっていた彼がそんなことをしていたと聞いて吐き気がした。証拠として写真を見せてくれたけれどマジマジと見る必要はなかった。間違いなく彼だった。彼がベタベタと他の誰かに甘えている姿がとてもとても気持ち悪かった。LINEですぐさま別れを告げて、繋がっていたSNSはすべてブロックした。
その後友人に朝まで自棄酒に付き合ってもらってアパートに帰ると、早朝だというのに自宅の前に彼がいた。待ち伏せか。私を見るなり土下座をしてきたけれど、あまりのありきたりな行動に笑うしかなかった。それならば、と私は台所からまだ開けていない塩を持ってきて彼の頭の上からかけた。500gのものしかなかったのが残念だ。3kgの塩をかけたらどうなっただろうかと考えるのは楽しかった。
「二度と顔を見せないで」という私のありきたりな台詞をちゃんと聞いてくれているのか、その後彼とは顔を合わせていない。
どうやらその時の彼女に妊娠したから結婚してほしいと迫られ入籍し、今では彼女の実家に同居しているらしいという噂を聞いた。実は彼女は他の男と不倫をしていて妊娠してしまい、どうしようもなくなって彼のところに押しかけたのだと噂で聞いた。人がよさそうで騙せそうだから、と。それもよくある話よね、と笑うしかなかった。


その2年後。
両親が離婚すると突然言い出した。
休日、急に呼び出された実家の居間で、両親の顔を見てなんとなくピンと来るものがあった。父と母の微妙な距離感と。居間に残る微かな香水の匂いで。
「…浮気した?」と疑問を投げかけると、父は黙ったまま目を伏せ、母は無言で涙を落とした。つまりは肯定という事か。どこにでもよくあるありきたりな話と言えど、娘が恋人の浮気を理由に別れてそれほど時間が経過していないと言うのに、父親も不倫して離婚しようというのか。
…こんな、こんな滑稽な話があるものか。
「すまない」と父は何度も何度も繰り返した。
新卒の彼女の教育をしているうちに情がわいてしまったのだと。念のために緊急連絡用にとLINEを交換したら、彼女の方から連絡が頻繁に来るようになって。食事に誘われたりするようになって…最初のうちこそ断っていたのだけれど、段々と断ることに罪悪感がわいて…と、少しずつ口ごもって行く父に「結局は寝たのね」と言葉を吐き捨てた。内臓にあるすべてのものを吐き出したい気持ちだった。
父は顔を真っ赤にして「女の子がそういうことを口にするんじゃない」と声をあらげていたが、まったくもって心には届いてこなかった。…というか既にやることやってるよ、お前の知らないところでな。20代半ばの女に夢見すぎなんじゃねえの?
ソファに体重をすべてあずけて天井を見上げた。いつも見ていた景色が歪んで見える。
母はひたすらに泣いていた。まもなく50に手が届くというタイミングでこんな話が出るとは思わないよね。私が恋人に振られた時も、ありえないと言いながら一緒に泣いてくれた母。こんなにもこんなにも当たり前のように浮気の話は転がっているのに、彼女にとっては今でもありえない話なのかな、という疑問がふと浮かんだ。口には出せなかったけれど。
その後いくつかの話し合いを経て、両親は離婚には至らず別居することになった。不倫相手の小娘に父がプロポーズをしたところ「そんなつもりじゃなかったのに…」と言い出したそうな。よくある話すぎて笑う。じゃあどんなつもりだったんだ。
母は父をゆるした。ただ、少しでいいから気持ちを落ち着ける時間がほしいと別居を選択した。
母は私に戻って来てほしいと何度も言ってきたけれど、仕事があるから無理と何度も断り続けているとそれもそのうちに止んでしまった。大学進学時に家を出てずっと一人暮らしをしてきて今さら親と一緒に暮らすのは無理だと思った。ましてや同じような経験をした者同士、どんな顔をして暮らせばいいのかがわからなかった。

どんなつもりで彼らがその道を選んだのかがずっとずっとわからずにいた。自分が同じような状況に陥るまでは。

あの人に出会ったのは、彼が私の職場に異動してきたのがきっかけだった。私の上司として異動してきた。彼がはやく職場に馴染めるようにサポートしてくれと店長に頼まれた。その後、顔合わせの際に念のためにとLINEと電話番号を交換した。ふと父の事が頭をよぎったけれど、仕事だからと気持ちを押し殺した。そんな理由で業務上必要な連絡先交換ができないとは言えない。
輸入雑貨を主に扱い、他にもいろいろ雑多なものを販売している小さな店に働いていた。私は開店から夜までの間、途中休憩を挟みながら合計で8時間ほど接客をメインに行い、昼頃彼が出勤してきて発注や商品整理を行う。平日の昼間はほとんど2人でいることが多かった。他にもスタッフはいたけれど、社員や準社員の資格を持っているのは私たち2人しかいなかったため、どうしてもお互いに助け合う事が多かった。
彼はとても優しかった。
新しい支払い方法やアプリが導入される際にも、私がわかるまで何度も何度も親切に教えてくれた。丁寧な言葉で誠実な態度で、どんな時も嫌な顔ひとつしなかった。それはシステムを把握しないままに運用をはじめてみて間違えられた方が困るからだとわかるのだけれど。
レジでの支払い方法はひたすらに増え続けていくのに、利用する側もわからない状態で利用しようとしてくる。スマホを見せてきて一言「これで」と言う客もいた。それだけでわかるわけねえだろと声をあげたかったが、改めて支払い方法を確認すると明らかに嫌そうな顔をする客の多いこと多いこと。iDにSuicaに各種電子マネーにPayのつく各種よりどりみどりの支払い方法があるというのに、「これで」だけで通じたら販売員はエスパーだろう。
その日もそういう客が来た。耳にはワイヤレスイヤホン。手にはスマホだけ。サングラスをかけているので表情は見えにくい。がたいがいい男性だから、というわけではないがレジに来た瞬間に警戒すべき客、というのはわかっていた。
その男性は期間限定で置いている輸入ビールとチョコレートをひとつずつレジに持ってきて「これで」と私にスマホを見せてきた。画面は暗いまま。何で支払おうとしているのかわかるはずもない。
「どちらでお支払いでしょうか?」
「だからこれで!!」
「当店はお支払い可能な方法が多数あるのでご指定いただけないと選択ができないのです。どちらでお支払いか教えていただけないでしょうか」
「だーかーらーこれでって言ってんだろ!!!」
男性が勢いよくレジカウンターを叩きつけた。勢いでビールが倒れて床に転がる。落ちた瞬間、途中どこかで缶が何か尖るものに当たってしまったのか勢いよく液体が噴き出してきた。なんの恨みか知らないが男性客の方に向かって勢いよく。
「何やってくれてたんだよ。お前、これどうにかしろよ!!」
いやそもそもそのビール倒したのお客様じゃないですかーとは言えずに、ひたすらに謝りながらレジ内にある雑巾を手に取りカウンターの外に出た。
その時、レジまわりの尋常ではない空気を感じてか、バックルームに商品を取りに行っていた彼が戻ってきてくれた。すぐに何かあったのを察してくれて「私がレジ交代しますね」と男性客から私を庇うように間に立ってくれた。それでも動けずにいた私から雑巾を取り上げると「この破損商品と同じの持ってきてくれる?」と背中を押してくれた。
棚に向かうまで足がもつれてなかなかうまく歩けなかった。男性客に大きな声をあげられた経験は一度や二度ではない。何度経験しても慣れる事はない。何度怒鳴られても怖いものは怖い。
どうにか入口近くにある棚から輸入ビールを取りレジに向かうと、途中でその男性客と擦れ違った。そのあまりの勢いに声をかけることもできずに見送るしかできなかった。ビールが一番高いところに配置されていて取るのにてこずったのもあって、なかなか戻って来ない私に怒って帰ってしまったのかと思った。
けれど真相は違った。
「スマホ、充電切れてた」
レジに戻った私に、ため息混じりに彼はそう言った。
「なんとかPay払いにしようと思って店内に入ってすぐにスマホの画面開いてたんだって。で、レジに来たら画面真っ暗になってたそうな。で、電源も入らないけどなんとかなるかなーって…なるわけねえだろバーカってな感じだよねぇ。充電少ないなら温存してろよ」
普段折り目正しい態度の彼の砕けた口調に思わず笑みがこぼれた。
「笑ってる方がかわいいね」
と彼がはにかみながら言ってくれた。ただそれだけの事。それだけの事のはずだったのに、しばらく恋愛と無縁だった分勘違いをしてしまったんだ。
あまりにもありきたりすぎるぐらいに下らない話。それだけの事で人を好きになれるの?と恋愛小説を馬鹿にしてきたのに、それから彼の事が気になって気になって仕方なかった。
彼はいつでも優しい。どんなお客様にも優しい笑顔で接するし、どんな無茶な要望にも答えようとする。もちろんできないこともあるのだけれど、その時にはきちんと説明してできるだけ理解してもらえるように努力する。私みたいに「できないものはできない」では終わらせない。
ただ従業員に乱暴を働く客は別だった。スマホ充電足りないマンのような粗暴な客もたまに来る。頻繁に来るわけでもないが、店が繁華街にあるため時折忘れた頃に必ずやってくる。その際にはどこにいてもすぐに気付いて矢面に立ってくれる事が多く、店中の従業員が彼の虜になっていた。
気が付けば彼を目で追うようになっていた。
話す機会も意識的に増やすようにした。
LINEで業務以外の連絡を取り合うようになっていた。
これは恋ではないと自分に言い聞かせながら。
その時点で既に恋に落ちていたというのに、私はひたすらに気付かない振りをしていた。