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Travelers④

その日もあなたはいつものように外出をされたのです。いつもの時間に。いつもと同じ鞄を持って。
でも少しだけ顔色が青ざめているように見えて。でもあなたは最近夜更かしが過ぎたからとだけ言って。ちゃんと帰ってくるからと言って出かけられたのです。
私はいつものように掃除をして洗濯をして。あなたが帰ってきたときにコーヒーを入れられるようにお待ちしていたのです。なぜか胸騒ぎがして横になっても眠ることができずに、ただひたすらにお待ちしておりました。
嫌な予感は当たるものなのですね。日が暮れて夜になってもあなたが戻ることはありませんでした。
こういうことが起きてから今さらなことを思い知るのです。あなたはいつもちゃんと帰って来てくださっていたから知る必要もなかったのですが、あなたに対してどうすれば連絡をとれるのか私は知らなかったのです。電話番号もメールアドレスも他のあらゆる交流手段も一切知らされていなかったことに気付いてしまったのです。
あなたはずっと家にいらっしゃった。出かけることはあっても短時間で必ず帰って来てくださっていた。あなたから私のもとへ電話をくださることはありましたが、それが公衆電話からなのか。はたまた携帯電話からなのか。それすら知らなかったのです。お屋敷にある電話は旧式でどこからかかってきたのか教えてくれるような子ではなかったので。
途方に暮れたまま私は座り込んでいました。リビングの真ん中で呆然と。日が落ちて部屋の中が真っ暗になってしまっても尚立ち上がる気力さえありませんでした。あなたが帰ってこない、それだけしか考えられなくなってしまっていて。
どれほどの時間が経過したことでしょう。不意に目に光が飛び込んできました。照明がつけられたのだと気付くまでに少しだけ時間がかかり、あなたが帰っていらしたのかもと顔をあげて…思いがけない人物が目の前にいて悲鳴をあげそうになりました。あなたではない他の誰かがこのお屋敷に入って来ていて。その方のことを私は知っている。知っているとわかっているのに、名前もどんな方かも思い出せない。それでも私の中のなにかはこの方のことを知っていると訴え続けている。
縁なし眼鏡をかけて灰色の三つ揃えを着たギスギスとした空気を漂わせた男性は、無表情のままに私の名前を呼んだ。リン、と。
「あの方からこれを渡すように言われたので」
手渡されたのは一冊の日記帳でした。布張りの表紙は何度も開いた癖がついていました。それはあなたが書いた日記でした。あなたがいつも使うインクとペン先で私の知らない物語が書き込まれたものでした。
読んでいいものかどうか悩んでためらって日記帳を見つめたままでおりましたら、男性に低い声で「読むように」と促されました。
『君がこれを読んでいるということは僕になにかが起きたときでしょう。君のために僕が何ができたかはわからない。でも、僕は君といられて楽しかった。それだけは伝えておきたかった』
小さい几帳面な文字。あなたが書いているのはわかるのに、あなたが私に向けて書いてくださっているだろうということも頭ではわかるのに。心が受け入れようとしない。
「あの方は…」
それ以上先の言葉が言えずに喉の奥に詰まってしまったまま。認めてしまうのがこわくて。確認するのがこわくて。
男性は目を伏せて私の問いかけに対しては何も答えず「お茶を入れましょう」と言った。
「夕飯もまだなのではないですか。こういう時こそ食べておかなければ」
彼はそう言うと台所の方へ消えてしまった。
今がどんな時かも教えてくれもしない癖に、と叫びたかった。泣きわめきたかった。けれどどれもできずにたたずむことしかできませんでした。