西住みほは"逆転した"ナルシシストである

 アニメ『ガールズ&パンツァー』に登場する西住みほは"逆転した"ナルシシストである。ナルシシストとは自己愛の深い者を指す言葉だが、実際のところ、ナルシシストは隠したい「否定的な自分」を「肯定的な自分」で覆い尽くそうとしており、根底にあるのは自己否定である。一方で"逆転した"ナルシシストは、「肯定的な自分」を「否定的な自分」で覆い尽くそうとする。つまり、本心では自分を肯定している、あるいはしたくてたまらないのに、何らかの理由で自己否定を重ね、「能無し」のセルフイメージを構築している。
 まず、西住みほは羞恥心が強く、自意識過剰的である。自意識過剰というのは、あらゆるナルシシストに共通した条件項である。本編第1話では、彼女は自分から知らない人に話しかけようとしないが、対して他人が自分に話しかけてきたときの準備はしている。それも、クラスメイトの誕生日を全て暗記するという、極めて奇妙で独善的な準備である。これは、彼女の偏執した自意識を表している。
 西住みほは本編開始時点において戦車道を嫌っているが、新しくできた友人(武部沙織と五十鈴華)をかばうためならと戦車道を続けることにした。これはつまり、西住みほは他人、とりわけ自身と重大な関係性のある人間のためならば自分が嫌なこともできるということである。「自分のために嫌なことをしない」もしくは「他人のために嫌なことをする」、このうちどちらかを選択しなければいけないときに、後者を選ぶということは、西住みほは自分自身を他人よりも相対的に弱い立場に置いて意思決定を行っているということである。
 つまり、西住みほは自分自身が嫌いである。より正確に言えば、自分自身を嫌いになった、という表現が正しい。しかし、この自己嫌悪は彼女の自我(有意識下)で保持されているものであるため、彼女の深層心理状態が正しく表現されたものではない。よって、これは西住みほが逆転したナルシシストであることと矛盾しない。
 幼少期の西住みほはやんちゃで、無邪気である。生き物を捕まえたり、悪戯をするのが好きである。対して現在では、そうだったことが想像できないほどに大人しく、真面目で、控えめな振る舞いの少女である。
 西住みほの幼少期は、人間にとって根源的な姿である自己愛が剥き出しの状態であり、無垢である。子供は何も知らない。何も知らないというのは、自分のことも知らず、自分以外のことも知らないということである。何も知らないからこそ、雑菌まみれの生物を平気で手づかみできる上に、自分以外の生命を残酷に傷付けることができ、あらゆる行動への心理的なハードルが低いのである。自分には何でもできると信じていて、自分以外の生命が同じ生命を持っていると知識としては知っていても、理解はしていない。
 しかし、子供は生きていく過程で小さな成功と大きな挫折を繰り返す。その結果、大抵の人間は肉体的な成熟と共に全能感を抱かなくなっていき、「自分は何者にもなれない」ということを知って大人に至る。
 幼少期の西住みほは全能感の塊である。もし西住みほが中途半端な才能しか持っていなかったとしたら、集団生活のどこかで挫折を経験し、全能感を失って、他者に迎合する姿勢を獲得していただろう。しかし、彼女は極めて優秀な判断能力と身体能力を持っており、それらの挫折を経験できなかった。それゆえに、西住みほは友達が少なかったのである。あらゆることが自分で完結してしまうために、他者に迎合する必要がなかったのである。この点は、西住みほの趣味がコンビニ巡りであり、そのような奇行で満足できるほど思考力が優れていることからも伺える。友達を欲しがっていたのは、飽くまで自分の思い描く「承認される人間」の像を再現するためである。
 恐らく西住みほが初めて経験した挫折は、他人から、それも親から自分の考えた作戦を否定されたことだろう。彼女は奇策の立案が大の得意である。
 西住みほからすれば、ただ勝てる作戦を考えているだけで、それは奇策でも何でもなく、真の自己を素直に働かせているだけである。しかし、大洗に越してくる以前ではそれによって周囲からの承認が得られなかったので、西住みほは真の自己(奇策を取る自分)を新たに形成した仮の自己(大人しく、真面目で控えめな自分)で抑圧することになった。
 西住みほが能動的に何かをするとき、この新たに形成された仮の自己が主な意思決定を行う。真の自己では周囲からの承認を受けることができないため、代替として行儀の良い仮の自己を立て、それによって承認を得ようとする。
 本編開始前の例の水没事故に伴う西住みほの救出行為は、真の自己が表層に現れることにより為された行動である。彼女は、「乗員が危ない」と感じて咄嗟に救出へと向かったが、この行為は自らを危険に晒してしまう自分勝手なものであるとも言える。したがって、理性と自我によって抑えつけられるべき行為であったのだが、「自分こそが救える」という全能感を発揮し、暴走した真の自己によって達成された。彼女はここで他人と相談あるいは協力し、わずかでも自分の抱く英雄的行為への欲求と現実的な事情の擦り合わせを行うべきだった。それができなかったのは、彼女が独りであったからである。
 西住みほが大洗にやってきた理由は、黒森峰が10連覇を逃した責任を問われ、母親から半ば勘当されたためである。これは西住みほが衝突した挫折の中で、最も巨大な挫折である。すなわち、他人のためになら嫌なことができる西住みほは、まさにそれが乗員のためになる、正しいことであると考えて救出行為に出たが、これらが否定されてしまった。全能性が期待される「真の自己」の無価値化が進み、彼女は誰からの承認も受けることができなかった。「自分勝手に動いた結果、皆から白い目で見られる」という経験が、彼女が忌避する強い恥辱の感情を生み、関係性をリセットする=自分がまっさらに戻れるような遠い場所へ移るモチベーションとなった。
 西住みほの認識上では、自分が高い能力を持っていることと、他者から承認を得られないことは矛盾する二項である。もし自分が高い能力を持っているとしたら、周囲からは認められて然るべきだからである。この認知の不協和を解消するため、西住みほは自己嫌悪し、これによって承認を得られない自分を(逆説的だが)肯定している。承認されないことによる自らの全能性の否定を、自己嫌悪によってさらに否定し、全能性は保護しつつも他者からの承認不足に納得がいくようなセルフイメージを構築している。
 西住みほの自己嫌悪は真の自己を抑圧する表層的なものだが、同時に自己嫌悪によって認知の不協和から自分を保護しており、彼女自身のアイデンティティに関わる中核的なものでもあるため、複雑な人格要素である。彼女の自己嫌悪は虚偽的ではあっても、決して有り体な意味での「嘘」ではない。彼女の理性にとっては、自身の不完全性は真であり、全能感を抱いてはいない。ただ単に、自らの全能性が明らかな否定を受けないか、あるいは否定されたとしてもヒロイズムによって承認を得ることのできる選択を深層心理的に選び取っている。
 まとめると、類稀な才覚を持つ西住みほは、挫折経験の乏しさからくる全能感を幼少期より引きずっており、自己を肯定する材料を多分に持ち合わせている。しかしその一方で、厳しい教育のために母親から十分な承認を受けていない。さらに周囲からは実力を正しく評価される機会に欠け、武門の宗家という生まれが特殊であることと、能力不足を他人に補ってもらう必要性の欠如から、実体を伴う人間関係のみならず精神的にも孤独であった。結果として、西住みほは承認欲求を拗らせてしまい、真の自己を抑圧して仮の自己を立て、「肯定的な自分」を「否定的な自分」で覆い尽くすことで他者から承認を得ようと試みていた。したがって、彼女は"逆転した"ナルシシストである。

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