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あのときスルツキーに従っていれば

みなさん、こんにちわ。おろしすきーです。

本田圭佑選手のCSKAモスクワ時代を振り返ったモーメントを投稿しました。たくさんの方々にリツイートしていただきました。ありがとうございます。初めてnoteを使うので、このモーメントから少し踏み込んでみたいと思います。

ジャゴエフ台頭による本田圭佑のコンバート

2010年にオランダのVVVフェンロから、900万ユーロ(当時約12億円)の移籍金でCSKAモスクワへ移籍。移籍当初はUEFAチャンピオンズリーグでトップ下で起用されて、ベスト16のセビージャ戦では直接フリーキックを決めるなど、大活躍し一躍脚光を浴びる存在になりました。

その後の南アフリカW杯ではセンターフォワードで起用されて、カメルーン戦、デンマーク戦でゴールを決めるなど、日本のW杯ベスト16に大きく貢献しました。

そんな絶好調で「Goal.com」では、「アジア人最高の選手」など言われ、絶好調の本田圭佑でしたが、W杯後に所属のCSKAモスクワでは「ロシアのモウリーニョ」こと、レオニード・スルツキー監督により、当時ロシアの若手MFアラン・ジャゴエフの台頭により、ポジションをボランチで起用されることになりました。

大体がこのような布陣が基本でした。ネツィドの位置にはコートジボワール代表FWセイドゥ・ドゥンビア、ブラジル代表FWヴァグネル・ラヴ、サイドにはセルビア代表MFトシッチ、リベリア代表のオリセーなど、当時のCSKAモスクワには多様のタレントが揃っていました。フォーメーションを4-4-2にして、ヴァグネル・ラヴとドゥンビアが2トップを組むこともありました。

その中でも脚光を浴びていたのが、当時20歳のロシアの新鋭MFアラン・ジャゴエフでした。「ロシアのランパード」など言われ、テクニック、パスに優れ、長身フォワードのチェコ代表FWネツィドとも相性がよく、機動力に優れたスター選手でした。

しかし、ジャゴエフも本田圭佑もトップ下を得意とする選手。サイドには突破力に優れるクラシッチとマルク・ゴンサレスを起用するだけに、彼らのどちらかをサイドハーフに起用するのは、この時点ではありません。

優れたキック技術とキープ力はボランチ向き

同時起用が実現できれば、ロシア・プレミアリーグでのライバル、ルチアーノ・スパレッティ率いるゼニト・サンクトペテルブルク相手に競り勝って、リーグ優勝を果たすチームになりうるかもしれない。そこでレオニード・スルツキー監督が取ったのは、本田圭佑のボランチ起用でした。

この起用法は、日本のメディアではよく騒がれました。ザックジャパンでもトップ下でプレーしている本田圭佑をトップ下での起用を望む声が非常に大きかったと私は覚えています。

だが、当時のCSKAモスクワのセンターハーフは2列目から前の攻撃陣に比べ選手層が薄く、ベテランのアルドニン、当時22歳の若手のママエフ、リトアニア代表でDF登録のシェンベラスの3人が主に起用されており、当時としては、抜群のキックとキープ力を兼ね揃える本田をこのポジションで計算していただろうと思われます。

両サイドから突破を狙うクラシッチ、マルク・ゴンサレスへの横幅を使った大きな展開に、最前線の長身のネツィドに当てて、その落としたボールをジャゴエフが狙うなど、本田のキックから多様の攻撃は考えられただろうと思います。実際に深い位置から前に出ることがほとんどなかったものの、CSKAモスクワの攻撃自体は良かった印象が残っています。

トップ下など攻撃的なポジションでプレーするには、ダッシュに難があるだけに、機動力に優れるジャゴエフの方が向いていると考える方が、現代サッカーに適合する考えだと思います。やはり左足から正確で長いボールを蹴ることができる能力は、深い位置からの方が活きるだけに、ボランチ起用を続けたレオニード・スルツキー監督の采配は理にかなっていると言えます。

守備時のポジショニングやテクニックなどは、どうしても埋めようがないスピードに比べると、後天的にも十分に身に付けることはできます。イタリア代表のアンドレア・ピルロ、スペイン代表のシャビ・アロンソなど、現在では、元々は2008年北京五輪でも活躍したセンターフォワードだったが、フラム時代にセンターハーフにコンバートされた、現ベルギー代表MFムサ・デンベレなど、1列下げて成功を収めた前例があるだけに、今後の長い将来を考慮した場合、この機にコンバートを受け入れる方が良かったのかもしれません。

自分の理想のためにはとことん追い詰める本田圭佑

効果的であったものの、攻撃的なポジションでのプレーを求める本田圭佑と、人材不足でボランチ起用を望むレオニード・スルツキー監督との対立が表面化になり、7月25日のスパルタク・ナルチク戦にベンチ外になります。

チャンピオンズリーグ、W杯での活躍により、波に乗っている時期。中田英寿との対談でも「ゴールを決めないと認められない」と発言がある通り、ゴールに貪欲な姿勢を見せていました。その本田の姿勢からは、スルツキー監督のボランチ起用を納得できなかったのは、当然だったと思います。

「ボランチでもサイドハーフでビッグクラブへ行くのではなく、トップ下でビッグクラブへ行く。そのビッグクラブの監督に俺を使わさざるを得ない選手になる」

自分の個性を出すために、徹底的に自分を追い込むのは、当時のCSKAモスクワでも、現在でも変わっていません。スルツキー監督のみならず、ACミランの歴代の監督にも、自分の理想を追い求めるために、徹底的に追い求めてきました。ハリルジャパンでも、多くのJリーグの選手が体脂肪率の高さを指摘される中、本田は5%と極めて低い数字だけに、理想に向けての徹底的な姿勢が現れていると思います。

戦術家であり、選手思いのスルツキー監督

本田のボランチ起用を試みたレオニード・スルツキー監督。19歳の頃に、木から降りれなくなった友人の猫を助けようとして、自分が木から落下。左膝の複雑骨折で選手生命が絶たれました。選手生命を諦めた後は、ボルゴグラード国立体育大学へ入学し、指導者の道へ進みます。

2005年から2007年までFKモスクワ、2008年から2年間はクリリヤ・ソヴェトフ・サマラで監督を務めた後に、2009年10月にファンデ・ラモス監督の後釜として、CSKAモスクワの監督に就任します。

2009年シーズンのCSKAモスクワは、ジーコ、ファンデ・ラモス両監督が上手くいかず、CSKAモスクワは中位に低迷。10月から就任したスルツキー監督は、アクの強いCSKAモスクワの選手をまとめ、守備を立て直して、一時期二桁順位だったCSKAを5位まで浮上させて、ヨーロッパリーグ出場権を獲得しました。堅い守備から効率良い攻撃を展開するサッカーを元々の持ち味としています。

同時にアクが強く、内紛も多いロシアサッカーにおいて、スルツキー監督は対話を重視する指導者でした。その中でもロシア代表を連ね、各国代表選手も多い、国内屈指の名門チームを率いるには適した人材だったと言えるでしょう。ロシアは選手の待遇がよく、外国人選手も長く在籍する傾向にあるリーグですが、逆に指導者には厳しい面もあるだけに、約7年率いたスルツキー監督は戦術と選手の個性の間で上手くバランスを取れていった指導者でした。

それ故に起用法で対立はしたものの、理想のために妥協はせず、結果を残し続ける本田圭佑には、結局スルツキー監督が要望に応えるような形になり、後にポジションを上げて、トップ下でプレーするようになりました。

2010年は人材難もあって、ボランチでの出場が多かった本田だったが、2011-2012シーズンには若手のママエフの台頭、スウェーデン代表MFヴェアンブロームも獲得により、主に2列目で起用されることになりました。2012-2013年にはAZアルクマールから移籍した、スウェーデン代表MFラスムス・エルムが、2010年に本田が担ったゲームメークでチームは活性化。本田は負傷離脱はあったものの、23試合7得点の活躍。CSKAモスクワは、2006年シーズン以来、ロシア・プレミアリーグ優勝を果たしました。

コンバートを受け入れていたら…?

その後、2013年末にACミランへ移籍、そしてパチューカ移籍、そして今回のW杯に繋がっていきます。しかし、中田英寿との対談でも言ってたような「ビッグクラブの監督も俺をトップ下に使わざるを得ない選手になる」と発言したとおりの選手にまでは、残念ながら、至らなかったのかと感じざるを得ないところです。

日々変化していくサッカー界において、トップ下が求められるような動きは、大幅に変わってきているのが現実でしょう。元々はトップ下だったが、ACミランではルイ・コスタからポジションを奪えずに燻っていたアンドレア・ピルロにしても、ポジションを下げて、希代のレジスタとして名を馳せてきました。フィジカルとキックに優れた本田ならば、今でもビッグクラブの中核を担う選手になれたのかもしれません。

オランダへ移籍してから「ゴールを決めないと認められない」と意識を改め、憧れの中田英寿との対談では、自分のプレースタイルへのこだわりの強さを発言した本田には、常に変化をし続ける現代サッカーであっても、ボランチへのコンバートは受け入れることができなかったのだろうと思います。

「プロフェッショナルはケイスケホンダ」と発言した本田。進み行く現代サッカーにおいても、自分を貫き通し続ける意志の現れでしょう。移りゆく現代サッカーにおいてでも、自分を押し通して、自分のやりたいことで認めさせたい意志が強く感じられます。

ただ、そこに至るには、ジネディーヌ・ジダンのようなレベルまで辿り着かないといけないのだろうと感じます。ロシアもカンチェルスキスやティトフなどの創造性溢れる選手が多かったが、アレクサンドル・モストヴォイが引退後は、2008年のEUROでフース・ヒディンク監督がベスト4に導いて以来、アラン・ジャゴエフを代表に動ける選手を起用する傾向が目立つようになっています。そのように考えると、本田の考える理想は、現代サッカーから見ると取り残されてしまうのかなとも感じてしまうものです。

トップ下の選手として、トップレベルまで突き抜けてしまう本田圭佑を見られたら、それは夢のある話だったと思います。しかし、ボランチ起用を受け入れたら、それはそれで違った未来も見られたに違いありません。本田圭佑のみならず、日本のサッカーにも。

W杯前にいろいろ取り沙汰される日本代表と本田圭佑。私にとっても、受け入れ難く複雑な心境ですが、CSKAモスクワ時代を楽しんだ身として、見守っていこうかと思っています。

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