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◆読書日記.《ジグムント・フロイト『夢判断』上下巻》

※本稿は某SNSに2020年7月30~8月13日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。


 ジグムント・フロイト『夢判断』上下巻、読了。

ジグムント・フロイト『夢判断』

 文庫版上下巻で合わせて1000ページ近い分量で、後半は怒涛の夢分析が出てきてちょっとダレた感じになってしまったが、これでやっとフロイトの夢理論の概要は理解できた。

  本書はフロイトの著作の中でも非常に分量の多い大著で、「現今ではフロイドの著作中最大の力作と評されている(土居健郎『精神分析』より)」とまで言われているという。
 フロイト自身も「本書は私の現在の判断をもってしても、幸運の結果、私が発見することができたもののうち最も価値あるものをふくんでいる。このような洞察は人生に二度とはおきるものではないのである」とまで言っているそうで、そうなりゃさすがに読まないわけにはいかないと判断したのだ。

 読んでいて色々と違和感があったのだが、それは本書がまだ1900年、フロイト44歳の頃でまだ研究段階としては初期~中期に入ったあたりの頃の著作だったかららしい。
 だからこそフロイトの晩年に固まる心内の「三つの国」や局在論、各種概念用語等に曖昧なものを感じたのだろうと思った。

 今でこそ『夢判断』はフロイト思想の代表的著作の一つと言われてはいるが、これはそれほど初期の作品というわけだ。

 最終的にはフロイトも夢の作業は無意識の作用が大きく関わっている事を明言しているが、そこに至るまでの説明がかなり大きく迂回してしまっているために、どこか奥歯に物が挟まったような説明になっている。

 ぼくはフロイトの夢の理論については以前からかなり懐疑的だったし、そうでなくとも色々と納得のできない理屈があった。
 そういった諸々も本書ではフロイトがそこに至るまでのロジックをしっかりと説明しているので一応は納得いった。
 だが、理屈は分かるがそれが実際に正当な内容なのかどうかは今も怪しんでいる。

 以前土居健郎の『精神分析』の書評の際にも説明したが、フロイトの精神分析理論というのはいわゆる「ガリレオ的(実証実験的)」な科学ではなく「アリストテレス的(観察/分析的)」な科学であり「どちらかというと人文科学的」という土居健郎の意見には至極納得するものがあったと思っている。

 つまりは「この現象の裏には〇〇という理屈が通っていると説明できる」という「説明できる」論理だからこそ「真実かどうか」というのは二の次になってしまっている。

 フロイトが夢理論を構築したのは、人の精神構造の真実を暴くためではなく、あくまで精神病治療のため"のみ"だという理由はブレていない。

 しかし、そうは言ってもフロイトによる「夢の目的は願望充足にある」というテーゼが、「それではなぜ夢には不安夢や恐怖夢などの悪夢が多いのか?」という疑問にも矛盾なく答えられているのは素晴らしいし、何故人は起床すると夢の内容を忘れてしまうのか?という事の理由も無理なく応えられていてエレガントだ。

 それらの理由の大本の原因が「無意識」にあったのだ!という本書最大の見せ場が、まるでミステリの大団円のように最終章「夢事象の心理学」に纏められているというこの構成は、読んでいて盛り上がりはするものの、しかし少々前半のダレを引き起こしていて悪手ではないかとさえ思うのだ。

 一般書だからこそこのような構成になったのだろうか?
 普通に考えれば冒頭に夢事象に関する理論の概要を説明しておいて、それを中盤に延々と挙げている具体的な夢事例によって証明していくという方法がスタンダードで読む方も納得しやすい方法に思えるのだ、本書はそのようにしていないのである。

 本書の構成は、上述したように本当にミステリのような形になっている。冒頭で挙げられるのは、夢に関するそれまでの数々の研究に関する文献研究で、その時点での各学会の「夢」の捉え方についての考察があり、それを踏まえて「夢」に関する数々の不思議な特徴を洗い出していくという方法を取る。

 そして、「何故そのような不思議な特徴が夢には存在するのか?」という本書最大の「謎」が提示される。それについての仮説としてフロイトは「夢の目的は願望充足にある」というテーゼを仮説として提示する。それに関する夢の事例を挙げ、それに次いで夢の分析を進めていく事となる。

 具体的な夢の分析を進めていくと、夢の特徴に関する心理的な意味が少しずつ見えて来る。つまり、「謎」を提示し、具体的な事例によって手がかりを探っていく「捜査」を行っていき、それを総合して「大団円」につなげる。――本格推理小説の構成だ。

 大著なので見えにくいが、『夢判断』の構成は、ミステリなのだ。

◆◆◆

 夢の作業についても、神経症の原因についても、フロイトはどちらも大きく「無意識」が関わっていると主張する。

 これについてはぼくがこれまで散々説明してきた、無意識の「快感原則」による本能的欲望と、それを意識の「現実原則」が「抑圧」によって抑え込む、という構図がそのまま「夢」にも適用できるという事。

 うるさくない場所で暗くして目をつぶり、思考を休ませる。そうやって外からの刺激を極力少なくする事によって意識レベルを低下させる事で「眠り」はやってくる。
 この状態はフロイトによれば「退行」の状態になるのだそうだ。
 そのために、意識のほうに「無意識」が自分の願望を通そうと侵入を試みる事となる。

 普段「抑圧」されている本能的な欲望を解消しようと、無意識は心的興奮をエネルギーとして自らを慰撫するような表象を作り上げようとする。

 だが、睡眠中においても、その無意識に対する「抑圧」は働いている。それが「夢検閲」である。

 無意識の欲望というのは、意識=現実原則にとってみれば都合の悪い欲望だ。
 だから、無意識の好む欲望をそのまま形象化させようとしても、「夢検閲」が許さない。そのため無意識は自分の欲望を形を変える事によって誤魔化し、「夢検閲」を通そうとするのである。

 夢に出て来る物語というものが常に荒唐無稽で意味が分からないのは、このように無意識が「夢検閲」を通すために、自らの望んでいる本当の欲望を誤魔化して、様々な形に夢の形象化を歪ませるためだと考えられる。

 それが無意識が夢の場において行っている事だというのがフロイトの夢理論の要のひとつとなっている。

 そのため夢の意味を分析するためには、無意識が様々に歪ませた夢の「潜在的意味」を理解しなければならない。

 無意識は移行、圧縮、等の方法を用いて自分の欲望を他の形に変化させて、上手く「夢検閲」の目を誤魔化しながら自分の欲望を充足しようと試みる。

 だから、夢を分析して出て来るのは、自分が普段無意識の中に抑圧している「本能的な欲望」という事となる。

 この無意識の願望を知る手段と言うのは、精神分析の治療手段と同じ方法を取るのである。

 即ち「自由連想法」だ。
 神経症の患者は、自らの無意識に抑圧している欲望のトラブル(=トラウマ)が症状の原因になっている場合が多い。
 自由連想法はそういった患者のトラウマを思い出すための手段として精神分析医が治療として利用している手段だ。

 夢の分析も目的は同じだ。
 夢を分析するという事は即ち、無意識に抑圧している自分の欲望を露わにするという事に他ならないからだ。

 そもそも、フロイトが夢の分析を始めたのは、神経症の患者がしばしば自由連想法の際に、自分が昨夜見た夢について話し始めるという事例が見られた事に由来している。

 だからフロイトが、夢と言うのは、神経症患者の症状の原因と同じく「無意識」に関わっている事なのではないか?と考えて分析を始めたのも納得のいく話である。

 フロイトは夢判断理論については、夢占い的な考え方をはっきりと否定している。彼にとって夢分析はあくまで精神分析治療の一方法だったのである。

◆◆◆

 フロイトのやっている夢の顕在内容の意味を分析するというのは、それ以前なら「夢占い」のような非科学的な占い師がやっていた事なので、一歩間違えれば山師のように思われかねない危険な事をであった。

 フロイトの時代では夢の内容について科学的に解釈しよう、と色々と試行錯誤していた学者はいたようなのだが、フロイトのように「夢の内容には象徴的意味がある」という解釈の仕方というのは、当時からいってもどちらかといえば「夢占い」のやり方に近いものがあるので、誤解も多かったのではないかと思われる。

 本書『夢判断』がこれだけの大著になったというのは、そのフロイトの夢解釈の方法論から胡散臭さを消すために、多くの具体的な夢の事例を取り上げて実際に詳細な分析を行っていっているので、これだけのボリュームがなければ説得的な読み物にならなかったという事なのだろう。

 精神分析学での夢の解釈方法というのは、上にも書いたように患者に行う「自由連想法」によって分析していく方法を採っている。
 夢というのはそれ単体で分析できるのではなく、夢を見た本人があれこれと夢の内容について連想を働かせていって分析を行うので、どうしても個人のプライヴェートな情報を出さざるを得ない事情がある。

 しかもフロイトの夢分析理論としては、夢というのは本人の抑圧された願望の表れであるというテーゼがあるので、分析した内容にはかなり赤裸々で生々しい欲望なんかも含まれている。
 という事で、フロイトはより説得力を上げるために、夢の事例の多くはフロイト自身が見た夢を題材として分析を行っているのである。

 フロイトとしても苦しかっただろうと想像できるのは、例えば大学の同僚のR教授とは普段仲良くしているが、実は自分は心の奥底では彼を馬鹿にしていたのだ……なんていう生々しい自らの内面を告白しなければならなかったという点である。
 さすがに個人名は出さないまでも、この論文の性格上、そういった自分の無意識に抑圧している欲望をも表に出さざるを得なかったのだ。

 しかし、フロイト流の夢分析のかなめというのはそこにあって「夢の内容がなぜ象徴的な形に変形しているか?」という謎の答えは、まさに「自分自身さえも認めたくない、自分が抑圧している生々しい欲望=無意識に抑圧している欲望」を夢の中でかなえるために、無意識が「自我」に気付かれない形に夢の顕在内容を歪め、間接的な形でその欲望をかなえようとしている表れなのだと解釈しているのである。

 これをフロイトは「夢の検閲所(=自我や超自我)」を通過するために、夢の顕在的な内容をそれと分からなくするために歪めている、といった表現をしている。

 そのように、『夢判断』はフロイトの生々しい人間としての欲望を自らさらけ出してまでその学説を証明しようとする、フロイトのかなり人間的な部分までも表現されている、学術書としては珍しい印象の本でもあった。


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