2020年の自分なりの「アニメのミカタ」

今年もまたアニメが始まる。

モニタと対峙する前に、アニメの見方/取り組み方を変えたほうがいいような予感がする。もっと真面目に観ろと人格Bが言う。

私のアニメ感想ブログを2019年のスパンで振り返ると、

ブログの更新は滞り
当然、投稿数も減り
作品の視聴本数も減っていた。

そごうの広告ふうに逆から読んでいくと、

視聴本数が減るから言及も減り
投稿することもできずに
更新が途絶えていったのだ。

大逆転がこの先あるかは知らない。塞翁が馬。

しかし、年が明けてしまえば、喉元すぎればなんとやら、去るものは追わず、猪突猛進、前を向いていく他ない。目の前のモニタを観るほかない。

その簡単な決意表明として、(どうせ継続できないのは合点承知の助なのだが──)ここに記しておこうと思う。

新しいクールを迎え、新アニメが始まるたびに守りたいが守れていない三カ条がある。主に第1話を観るまでの心構えのようなものである。

・作品に対して好評の声を多く耳にしたあとに「いざ観て、面白さが掴めなかったらどうしよう」と不安になる心を捨てること
・いまの自分の知識量では この作品の面白さをしっかり理解できないんじゃないだろうかと思う心を捨てること
・(自分のブログやTwitter活性化のため)鑑賞した作品や各話数への言及と記録をもっともっと行うこと

毎度決意を固めては反故にしてきた自分との約束事。

「まだそんな浅い見方してたのか」と誰の声でもない声が頭のなかから聞こえてきそうなのを今年はぐっと耐え……、耐える。

唐突だが、今年のスローガンは「見栄を上手に処理する」ことである。私が寡黙なのは未熟をさとられないためであったが、「そんなことも知らない自分」「アレも観ていない自分」「こんなことも体験していない自分」を認めないとこの先”ヤバい”予感がするのだ。警鐘が聞こえる。

アニメを観る際に意識はどこに向いているのか

すごく手前のあたりでは「かわいい」「かっこいい」から始まり、

「この構図いいな」「このカットのつなぎ方いいな」「演出効いてんな」「エフェクトいいな走り方いいな」「オバケ面白いな」「線細いな」「主線が黒じゃないな」「この色づかい良いな」「美術いいな」「ライティングいいな」「この声かわいいな」「エモーショナルな演技してるな」「この劇伴(BGM)いいな」「この音(SE:サウンドエフェクト、効果音)いいな」……エトセトラ……

ざっと挙げたなかでも、音響、原画、動画、仕上げ、動画検査、色指定、美術、撮影、編集、コンテ、演出、脚本、キャスト……さらに細分化していく。多岐にわたるそれらのセクションへのアンテナを開放し、いわば引き出しを全部半開きにしたようなフロー状態のなか、作品と向き合う(ちょっとカッコつけました)。

そうすると、なぜこの構図を選択したのか、なぜこの色彩が強調されているのか、なぜこのタイミングで劇伴が流れるのか……、言語化もわかりやすい提示もされていない造り手の意図がだんだんと想像できるようになる。

身構えると目的からブレてしまうから

勘違いされがちだが、「この話数でジャンプカットが登場するかな。イマジナリーライン超えがあるかな」といったことを思いながら──演出に身構えながら映像を観ているわけではない。あくまでもフラットに。

例えるなら、「ガッキーとばったり出くわしたりしないかな」と考えて道玄坂を歩いたりしないという話。道玄坂を歩いていたら、たまたまガッキーが前から歩いてきて、「あ、ガッキーだ」となる。当然、ガッキーを知らない人、気づかなかった人は何事もなくすれ違う。感動も似たようなものだと思う。ガッキーに気づかなかった人を「もったいないことしたね」と言うかどうかは別にしろ。

感動といえば、「感動は出会い頭に生じるもの」という信心を掲げている。なるべくなら関連する情報(参加スタップのクレジットやTwitterの感想など含む)を入れずの状態を保もったまま視聴に臨めると好ましい。あまり実現できていないが(なんだこの話は)。

(※フォロワーさん・フォロイーさん達の感想ツイートを牽制する狙いはありません)

アニメの見方に軸を戻そう。

さきほど羅列した「あれいい、これいい」がどこのセクションなのか。それをなるべく自身のなかに吸収したい。自分がいったい何に感銘を受けたのか、を突き詰めてみたい。

このキャラクターの描線は手描きなのか、CGなのか。ソフトはなんなのか、Flashなのか? そこまではいまのところ興味は薄いが、川を観て「川の作画ごいすー」とは言いたくない。それなりの審美眼を身に付けたい。

(でも、注目を集めるためにはそういう”ハッタリ”も効かせて、居直っていかなくちゃいけないのかもしれませんね……”みんな”で楽しくやるには)

アンテナの感度を上げていこう

どこに意識を向けるか、という話だった。

記事の中盤で挙げた各要素について「音はどうか?」「構図はどうか?」「芝居はどうか」「演技はどうか」と自問するように意識を多方面に集中していけばよいのではないかと思う。クオリティ、意図、必要性、評価軸はいくつもある。

例えば、「普通(自然)を成立させるためにあるもの」は自然であることが普通だから、「自然さ」が成り立っていれば意識の上には昇りにくい。

絵にしろ音にしろ、めちゃくちゃ優れていたり、めちゃくちゃ崩れていたりして、なにかしらの「尖り」があれば反応もできるが、これにもそれなりの練度や注意力が必要なのではないかと私は読む。

「街の風景を描いた絵」が街の風景に見えるのは自然なことで、
「木の上で足を踏み鳴らして収録した音」が靴の音として聞こえるも自然なことで、やはり意識には残りにくく後ろに流れていってしまう。

だから、意識的に観るということは、

・「街の風景」(の表現)としてどうなのか
・「靴の音」(の表現)としてどうなのか

そういった表現の深度を評価して、捉えていく作業なのだと思う。

アニメの視聴をレベルアップさせたい、ものである


2020年度の最初に視聴する作品は動画工房の『恋する小惑星』のようだ。
おそらくウォン・カーウァイは関係がない。

↓↓原作の第1巻が試し読みできるそうですわ。

「完璧なエンディング、さすが動画工房」(Tweet人知らず)という評は、半分正解で半分不正解だと思う。その半分を詳しく知っていきたいし、なんならしっかり論じてみせるくらいの知識が欲しい。100万円より知識だぜ。

お金の問題が耐えない業界を救うようなアニメの味方にはなれないが、せめて、いい視聴者ではいたいよね(うまくない)。

なにはともあれ、視聴しないことには多くは言及できないので、宣誓も終わったところで2020年のアニメを浴びるとする。


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