まだ息のある10年代へ


 私も2010年代が好きなので、古い話をついしてしまう。
 日曜の朝はスーパー戦隊を見て、仮面ライダーを見て、プリキュアを見て、題名のない音楽会を少し見てからチャンネルを替えてドラゴンボールを見て、ワンピースを見て、笑っていいとも!増刊号が始まる。いいとも!増刊号が始まると親が起き出して、日曜日が確かに始まると実感する。
 私の家の居間に置かれたテレビは、ゼロ年代の初頭から2010年代の終わりまでテレビ番組を垂れ流していた。
 テレビ番組だけではなく、ビデオデッキにDVDをセットして『カーズ』を観たこともある。ゲオで未だ新作だった『アナと雪の女王』を借りてきて家族で観た時もあった。チーズ味とキャラメル味が半分ずつ入ったポップコーンを食べながら、ピエール瀧が吹き替えを担当している雪だるまを眺めたはずで、あの時期はこのポップコーンばかりを食べていた。家族全員がハマっていた。
 時には車で30分ほどの所に住んでいる祖父母の家でテレビを見ることもあった。この家ではBSが繋がっていたので、深夜に幸腹グラフィティを見たり、陽の高い頃にコタツに潜って録画したフィニアスとファーブや再放送のけいおん!を見たり、夕方祖父母宅に着くなりテレビを点けてBS11にチャンネルを合わせてウルトラマンAを見たこともある。
 祖父母宅から更に車で30分ほど行った所にトイザらスがあり、そこでおでんくんのキーホルダーを買って貰った記憶もある。おでんくんは金曜日のビットワールド内の放送であったから祖父母宅で見たことはなかったはずだった。たいてい土日の休みに祖父母宅へと出掛けるからだ。
 土曜日のNHKのアニメの記憶も鮮明だ。あらゐけいいちの日常とかバクマンとかファイ・ブレインとかログ・ホライズンとかをやっていた。電脳コイルも同じく土曜日だったように思う。もちろん時期は違うけれど……。
 いいとも!が流れていた時、バクマンが流れていた時、さんまのSUPERからくりTVが流れていた時、絶対可憐チルドレンが流れていた時、クイズ!ヘキサゴンが流れていた時、SMAP×SMAPが流れていた時、幸腹グラフィティが流れていた時、私はどこにいたのか。ダイニングテーブルの下で横になっていたかも知れない。和室の敷居に腰掛けてスマホでゆゆ式を見ていたのかも知れない。いやYouTubeに違法アップロードされた妖怪ウォッチだったのじゃないか。
 2010年代という切り口で1つのジャンルを語る時、2016年という1年が重要なピースを成すらしい。「らしい」と書いたけれど、私だってそれを感じている。2016年にはライオンのごきげんようが終わる、SMAPが解散する、小林幸子も和田アキ子もいない紅白の時代が始まり、小池百合子は都知事になる、ドナルド・トランプが大統領選に勝利し、当時の天皇は御気持ちを表明した。大きな時代の切れ目だ。パラダイムシフトという言葉を使う者もいるだろう。
 2016年以前と以後にある作品の幾つかを取り上げて並べ論じてみる時、それは何を目指しているのだろうか。論じる人は何を目標に論ずるのか。
 私は個人的な経験、失われつつある過去の自分を喚起するたたき台としてあるのではないかと思う。ダイニングテーブルの下で見たSMAP×SMAPやコタツの中で見たフィニアスとファーブや敷居の上で見た妖怪ウォッチは、確かに作品単体で自立していて、過去として振り返っても作品という確固とした体裁を維持している。しかしその体裁について論じることに私は大きな価値を見出すことが出来ない。価値のない作品だからではない。価値ある作品の内容よりも、それを見ていた自分が何を考え何を感じていたかの方が余程大切だと思うからだ。
 過去の作品を振り返ることは過去の自分を振り返るということだけを意味するのではない、自分を育んだ父親や母親が当時どうしたことを感じていたのか、何を考えていたのかを知ることにもなる。
 つまり自分の実存に立脚して過去の作品を見なければ意味がないのではないかと考えるのだ。
 もちろん主観が入ってはいけない領域もある。大きな歴史の流れを紡ぐ時、自分はここに思い入れがあるからフォーカスして捉えてしまおうという態度はあってはならない。しかし、そんな君子然とした態度を人々はこれまで取ってきただろうか。
 ざっくばらんに書いてしまえば、自分の存在を隠して取り繕った目線から作品を語るのではなく、もっと自分の存在を詳らかにして自分という存在に則して何事かを語って欲しい。
 それは自分だけの経験かも知れないし、感性かも知れない。1つの時代を描き出すならそれをやらないと、お手軽で薄っぺらの代替可能な「史観」を生み出すことにしかならないのじゃないか。
 私は、けいおん!が如何に優れた作品であるかよりも、けいおん!をどんな時に見たのかということの方が遥かに大切だと思う。けいおん!の素晴らしさは、けいおん!を見れば明らかだけれど、自分がけいおん!を見た時の人生の輝きは自ら語らなければ誰も語ってはくれないのだから。
 10年代を懐古する者の肉体が腐臭を漂わせ、臓器を地面に垂れながら辺りを彷徨う前に、今流行りの言葉で言えば「老害」になる前に、己のなかの10年代"そのもの"と向かい合うべきだと思う。

10年代の亡霊 織沢

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