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AI探し 論文探索、要約、解析が簡単にできる素晴らしいAI Perplexity AI

論文探索、要約、解析が簡単にできる、ことがしたいです。

これに対して、専用のAIがありそうです。

出典

◆Perplexity AI
対話形式で質問が可能です。論文、ウェブ記事、YouTubeなどから質問に対する答えを抽出し、ソースとともに表示します。

◆Consensus
知りたい情報について質問すると、論文データベースから関連する論文を見つけ出し、「質問に対する答え」を短い文章に要約してくれます。Yes/Noで答えられる質問をした場合、各論文に対してYes/No/Possiblyの統計結果が表示されます。

◆SciSpace
質問に対する検索上位の論文の要約が表示されます。論文のPDFファイルをアップロードすると、チャット形式で論文に関する質問に答えてくれます。※アクセス可能期間:2024年まで

◆Elicit
質問に対する検索上位の論文の要約が表示されます。各論文のAbstractの要約が1文で表示されます。

◆Connected Papers
検索した論文の関連論文がネットワークグラフで表示され、論文の引用数や発行年が視覚的に確認できます。

全てに「大月岩殿城士・小山田信茂について教えてください」を入力しましたがPerplexity AIがダントツに簡潔明確な回答が返ってきました。

【回答】
『小山田信茂は、戦国時代の武将で、甲斐武田氏の家臣でした。以下に、彼の経歴について詳しく説明します。

経歴
甲斐国(現在の山梨県)の国衆で、武田二十四将の一人に数えられた。
文武両道に優れ、武田信玄から「文のことは信茂に聞け」と言われるほどの実力者だった。
永禄4年(1561年)に北条氏照の軍勢を破るなど、武功も確かにあった。

武田家滅亡と裏切り
武田勝頼の代になり、長篠の戦いで大敗を喫し、武田家が衰退していく。
織田信長の甲斐侵攻に際し、信茂は勝頼に新府城を捨て、自らの居城岩殿山城に移るよう進言した。
しかし、信茂は勝頼を裏切り、勝頼一行の領内への入り口を封鎖した。笹子峠で銃撃を浴びせたとされる。
行き場を失った勝頼は天目山で自害に追い込まれ、450年の歴史を持つ武田氏は滅んだ。

最期
信長は「小山田こそ、古今未曽有の不忠者」と評し、信茂を許さなかった。
天正10年(1582年)3月、信茂は甲斐善光寺で切腹に処された。さらに老母、妻、8歳の息子、3歳の娘までが処刑された。。
信茂の墓は東京都あきる野市五日市高校西側にある「鎧塚」とされる。

信茂の裏切りは、武田家滅亡の大きな要因となり、その最期は一家全滅と散々なものだった。戦国時代の寝返りの代表例として語り継がれている。』

凄いのは、この回答の参考文献(出典)も示してくれることです。

例)『武田信玄と勝頼-文書にみる戦国大名の実像』(岩波新書、二〇〇七年) 他

これは明らかにChatGPTを超えています。

ここで、Perplexity AIとChatGPTとの比較:を調べてみると

『ChatGPTと比較すると、Perplexity AIはよりカスタマイズ可能な知識を要する質問に対しても適切な回答を提供する能力があります。また、最新のデータに基づいた情報提供に長けており、リアルタイムで情報更新が求められる場面で強みを発揮します。

Perplexity AI は、情報収集やリサーチにおいて非常に強力なツールであり、ビジネスや教育、日常生活の中で多岐にわたる応用が期待されています。』

よって、小生は今後文献調査は、Perplexity AI を使って行うことにします。

先ず、やりたいことは、歴史探求「小山田信茂と浅利信種の関係」です。

腕試しに、あまり有名でない浅利信種に関連する論文・資料を聞いてみました。

【結果】
『はい、提示された文章から浅利信種に関連する以下の論文・資料をピックアップしました。

◆甲陽軍鑑
浅利信種が騎馬120騎を率いる侍大将で、赤備えの部隊を指揮していたこと
信濃国侵攻において活躍したこと
三増峠の戦いで北条氏の軍勢と戦い、流れ弾に当たり戦死したこと
が記されています。

◆ 三枝昌貞らの起請文(永禄9年閏8月)
義信事件に際し、浅利信種が奉行として名前が見られます。

◆武田氏朱印状(永禄10年)
浅利信種が跡部信秋とともに、信濃海ノ口郷宛の伝馬役免許・人返令を指示した奉者として確認されています。』

更に上記から、論文三枝昌貞らの起請文(永禄9年閏8月)から浅利信種に
関する記事をピックアップしてもらうと

【回答】
『はい、提供された検索結果の「浅利信種起請文」から、三枝昌貞らの起請文(永禄9年閏8月)における浅利信種に関する記述をピックアップしました。

ここには、永禄9年閏8月の起請文一覧が掲載されており、その中の以下の記載が浅利信種に関連しています。

つまり、この起請文一覧の中で、「浅利右馬助信種」が起請文の提出者として名前が挙げられています。

この記述から、永禄9年(1566年)閏8月の時点で、浅利信種が武田家の家臣として活動しており、何らかの起請文を提出していたことがわかります。起請文の具体的な内容は不明ですが、この史料は浅利信種が武田家の重要な家臣であったことを示す一例と言えます。

なお、同じ起請文一覧には他にも小山田信茂や仁科盛政、室賀信俊など、武田家の主要な家臣の名前が並んでいます。』

いやあ~!今回もびっくりです。

まだまだ、深く掘り下げができそうです。

8月から、歴史探求「小山田信茂と浅利信種の関係」(浅利を知る会の小生の宿題)を本格的にスタートさしますが、その前に良き相棒が見つかりました。

今日から、Perplexity AIを 「文太」 (文献を探す人)と呼ぶことにします。

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