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私がADHD診断を受けるまでの53日間

ADHD(Attention Deficit Hyperactivity Disorder):注意欠如・多動症
…発達障害の1つ。忘れ物やミスが多い「不注意」、落ち着きのない「多動性」、待つことが難しくすぐに実行してしまう「衝動性」の3つの症状が特徴。小児期からその特性が見られるが、症状や環境によっては見過ごされ、大人になってから診断されるケースも最近では多い。

大人のADHDの症状|アスクドクターズトピックス (askdoctors.jp)


2022年1月17日 午前3:00。

数時間後には起床し、また始まる新たな1週間に向けて活動し始めなくてはならないというこの時間に、私は寝れなくてスマホで死ぬ方法を検索した。
そのうちなんだか過呼吸気味になり、台所にある包丁で喉を一突きしてしまう数分後の自分の姿を予見した。
たまらず寝ている妻に泣きながら「死にたい」と訴えた。

その日から今日までの53日間、私は会社に行っていない。




真っ先に予約した心療内科に初診でかかったのは、それから1週間後だった。心理士による簡単な聞き取りの後、医者には「適応障害」としてその場で休職診断書を書いてもらい、睡眠導入剤を処方された。
「しばらく休職か、まぁ季節が変わるころには復帰できるだろう」と軽く考えた。

帰りに、大人(18歳以上)のADHDを判別するための心理検査「CAARS」の検査用紙を渡された。本人と近親観察者の2人で、本人についての同じ質問に答えるという形式のものだ。
なんだか、性格診断みたいだった。

次の診察は初診から1週間後だった。
実施したCAARSの回答を提出し、1ヶ月後の検査結果を待つことになった。
診断と今後の治療方針を急いて尋ねようとする僕に、医者はこう言った。
「まずは適切な睡眠をとり、生活リズムを戻していくことが最優先です。診断を下すための検査の結果が出るのにも時間がかかります。仕事に復帰できるようになるまで、どんなにうまくいっても3ヶ月はかかると認識しておいてください。」

また、こうも言われた。
「当クリニックでは、通院治療の一環として”リワークプログラム”(以下リワーク)という取り組みを実施しています。精神疾患で休職している方々を対象に、復職に向けて集団で事例を共有しながら進めるグループセッション方式のワークです。気持ちに余裕が出てきたら、ぜひご参加ください。」
渡された案内用紙は、週単位のコマ割り表だった。9つのプログラムのタイトルと簡単な説明だけが載っていた。
これに参加した実績は、診断を下す材料にもなり得るものなのだろうか。
そう尋ねると、「そうですね、参考にする部分もあるかと思います。」だそうだ。
一刻も早く復職したかった私は、リワークの担当者と面談する予約をその場で取り付けた。

翌日、早速リワーク担当の精神保健福祉士と面談した。
そこで休職に至った経緯と、今までの人生でどういう経験をしてきたのかを断片的に話した。一通り話した後、福祉士はこう言った。
「あなたには、リワークが必須だと思います。出れそうな状態であれば、早速来週から参加しましょう。」
休職日から2週間、こうして私はリワークに通うことになった。

リワークに通い、他の参加者の方々と様々な事例を共有しながら復職に必要な知識や気構えを吸収していく日々が続いた。
千里の道も一歩から。参加するこのリワークの1コマ1コマが復職への道のりだと思うと、やる気も湧いてきた。

そんな日々を送る中、妻も交えた両親への定期報告会で、それは起こった。

こんな状態になった私を心配し、種々の文献を読み漁り調べた父は、そこから得た知識とこれまで育ててきた経験とを組み合わせて、「やっぱり君はADHDの気(け)があったんだな」と言った。妻も頷いていた。

私は、内心憤慨した。
主治医からまだ正式な診断を下されていないこのタイミングで、なぜ素人であるあなたたちに「お前はこうだ」と決めつけられなきゃならないんだ。
しかし、それは言えなかった。
そして、今後の私の「取扱い方」について議論していた(しかもお酒を飲みながら)。まるで私は腫れ物扱いだ。それが苦しかった。

その後もリワークに通いながら、診察を重ねる日々。

そして、3月11日。
初診時に実施した検査結果がフィードバックされた。


診断結果は、やはりというべきか、高傾向のADHDだった。
(注意欠如:高、多動性:中、衝動性:高)




私は生まれてから35年間、「自分は普通の人間である」と思いながら生きてきた。勉強はそこそこできたし、人間関係も何とかなってきた。今は結婚して、子どももいる。順風満帆とまではいかないながら、「普通」と言って差し支えないような人生だと自負していた。

「普通であること」に対して並々ならぬ価値を見出していた。
「普通の人間でいなければならない」という強迫観念を持ち続けていた。

この強迫観念と価値観は、幼少の頃からADHD特性を無自覚に持っていた私をなんと重い鎖で縛りつけていただろう。もはや「呪い」といってもいい。
父と妻からの腫れ物扱いに対し憤慨してしまったのも、この呪いに抗おうとした心の反応だったのだと思う。

そして、最も厄介だったのは、「普通」でいようとするあまり、無意識に「普通」に擬態することが次第に得意になってしまったことだ。そのせいで、ここまでの人生が表面的にはいつもなんとかなってきてしまった。
(もちろん、周囲からの支援の賜物でもあるだろうが)

しかし、ADHD特性という視点で自分の人生を細かく振り返ると、その特性に符合するエピソードが幼少期の頃から山ほどあったことに気付いた。
その気付きによって、ADHD診断が「お前は普通じゃない」という烙印のように感じられ、「私が普通に生きるのは無理なんだ」と絶望してしまった。


絶望の後にきたのは、諦めだった。

自分が「普通」を手放すことを、初めて許せた。
「もう普通を追い求めなくてもいいんだ」と思えたことで、長年私を苦しめていた呪いが少し解けた、ような気がする。

そして思い返すと、あの日父と妻にADHDの要素を推測されて憤慨した経験が、今回の正式な診断を受け止める際の緩衝材になってくれていた。
あの葛藤がなかったら、自分がADHDであることをここまですぐに受け入れることはできなかったのではないだろうか。

「普通」と決別し、ADHDとしてこれからの人生を生きていく。
そう思えたことが、今回の診断で得られた救いだった。

それと同時に、「これを生きる上での言い訳にしてはならない」とも強く思った。ADHDであることは受け入れつつ、それでも地に足を付けて生きていかねばならない。

焦って復職しようとするのはやめた。
この休職期間中に、今後の自分の生き方についてじっくり真剣に考えていこうと思う。


難儀な人生だ。でも、その難儀さこそが私の人生だ。



※「普通とはそもそも何か」みたいな定義論や、「普通であること」の価値に関する考察などを展開するつもりはない。そんなものは健康で暇な人間(学者とか)に任せておけばいい。
今の私は、「私」を生きるのに必死だ。




…ここまで書いた文章を自分で読み返してみて、「どっかで聞いたことあるような話だな」と客観的に思ってしまった。
そうだ。似たような話は、本やネットにいくらでも転がっていた。
そして私自身も今までに幾度となくそれらを読んだことがあったし、ADHDを知識として知ってもいた。

けれども、今回自分自身がその「似たような話」と同じことを経験し、いかに自分の考え方が変わったか。
知識に経験が加わることで、知識だけの状態と比べていかに重みが増すかを、身に沁みて痛感した。

そう思うと、n=1体験談もバカにできないものである。

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