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商品貨幣論14  ―古典派とマルクスの共通項「商品貨幣論とミクロ経済学」―

前回の箇条書きをまた示しておきます。

  1. A「王侯貴族」が富(価値)を施行してもB「貧困層」には行き渡らない

  2. A「革命政府」が富(価値)を施行してもB「貧困層」には行き渡らない

  3. A「資本家」が富(価値)を施行してもB「貧困層」には行き渡らない

  4. A「共産主義的独裁者」が富(価値)を施行してもB「貧困層」には行き渡らない

4者とも全てに
AからBへ富(価値)をどう運ぶか?
という共通性があることが分かります。

A と B の間では
Bが商品・サービスを労働という形で生産し、それに対して、

Aが労働を正当に評価して賃金・貨幣を供給し、

Bは受け取った賃金でBの間で消費活動をします。
平たく私たちの生活的表現でいうと、
労働して給料を得て、そのお金で商品を購入することです。

A⇔B
  と
B⇔B
の間で、貨幣が介在して価値が物々交換されるこの現象を

「商品貨幣論」と言います。

ここから分かるのは1~4は

「Aが労働を正当に評価せず、賃金・貨幣をBに適切に供給しなかった」

がために破綻していることです。

何故、AはBを正当に評価しなかったのでしょうか?

これは「人間関係」という特性上、狡猾ながらも自然なことです。

AがBの生産する商品・サービスに対して、「正当に評価を下さない」で賃金としての貨幣を少ししか供給しない。
  ↓
Bは賃金を減らされたことに不満を持ちつつも、更に減らされるのを恐れて(貧困ゾンビ思考)更に報酬を得ようとサービス残業をし、人件費の安い仕事が生産される(しかもこのゾンビは、他の人にもサービス残業をするように強要し増殖します)。
  ↓
AはそれをBに対して販売し、結果的に貨幣がAにだけ偏重するようになる。
  ↓
AはBに貨幣を支払う主人となり、BはAの従者となる。

AはBに対して、「正当な賃金を支払わない」だけで、
AとBは完全な主従関係を構築することが可能になる
わけです。
これは逆説的に「AとBがお互いに対等な立場」であったならば双方に幸福な状態を保てることを意味しています。
しかし、前回も述べた通り

Aは常に聖人君子でしょうか?

「商品貨幣論」には聖人でなければ、必ず主従を作ろうとする潜在的な欠陥があるのです。

商品貨幣論の危うさ、
Aが人間として当然の「少しでもズルしてしまおうとする行為」を
補完し得るものが無い限り
1~4のAとBの関係の破綻を防ぐことはできない、
ということです。

それでは1~4の表現を更に書き換えてみます。

 A:主人  ⇔  B:従者
  (この関係を置き換える)
         ⇓
A:供給側      B:需要側
生産管理者   ⇔   生産労働者
 資本家      消費者

これは何を言いたいののか、というと、

古典派経済学の頃から、
マルクス経済学の時代まで、
経済学とは
「A:供給側」が如何に富(価値)を
「B:需要側」に供給するか?

ということが命題の学問であった、ということです。

この「商品貨幣論」に基づいた

「供給側からの需要側への富・価値・貨幣の分配」
という範囲で経済学を考えることを

ミクロ経済学

と言います。

そしてここまでの説明で読者には分かっていただけるのではないかと、希望するのですが、

  1. コルベールの重商主義による農民デフレ化政策が何故失敗したのか?

  2. フランソワ・ケネーの重農主義政策から芽吹いた古典派経済学が何故、フランス革命後のフランスで失敗したのか?

  3. イギリスで、何故強烈な貧富の格差を生じさせ、経世済民の実現が失敗をしたのか?

  4. マルクス経済学が何故失敗したのか?

全て
「A:供給側」が如何に富(価値)を「B:需要側」に供給するか?
という「商品貨幣論」に基づいた「ミクロ経済学」だったためなのです。

ここではっきりと私の個人見解を強く表明します。

マルクス経済学はマクロ経済学ではありません。

マルクス経済学は商品貨幣論であり、
供給側から需要側への価値の分配を考えた学問であり
貨幣論としては「貨幣の価値」を考えた学問であり

現代においては、主流派経済学と同じ

「ミクロ経済学」です。


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