見えている私、見えていない私。見えているあなた、見えていないあなた
自己紹介でありがちな、ちょっとずつずれてゆく解釈
「私は兵庫県の尼崎市出身です」
初見の方に出身地を尋ねられたら、私はこう答える。0歳から23歳まで暮らした尼崎なので、ある程度のアイデンティティのようなものがある。尼でそれなりにオモロいこともあったし、尼特有のネタになるような話もたくさんある。
しかしながら、2度目にお会いする際に多くの場合、「飯室さんは神戸出身でしたよね」となる。いやいや、神戸は違う。全然違う。ほとんど行ったことすらない。
自己紹介の際に職業や所属を伝えることも多々あると思う。私の場合であれば、「長野市の善光寺門前で1166バックパッカーズというゲストハウスをやっている飯室です」という具合に。私のなかでは、"長野市" "善光寺門前" という場所にそれなりのイメージがあるし、"1166バックパッカーズ" という宿にはもちろん自分なりのコンセプトや大切にしていることが詰まっている。ただ、初見の人は "1166バックパッカーズ" はもちろんのこと、 "善光寺門前" という場所に対してのイメージはないことだって重々に考えられる。そういう場合、「長野市の善光寺門前で1166バックパッカーズというゲストハウスをやっている飯室です」という自己紹介は「長野でゲストハウスをやっている飯室さん」になり、「長野で外国人向けの安宿をやっている飯室さん」へと変化する。
そこで私は、「さて、飯室は外国人向けの安宿をやっている(やりたい)のか?」と自問する。答えはNOだ。
アイデンティティや大切にしているものを、わかってもらえると嬉しい
この場合、1166バックパッカーズ、またはゲストハウスというものが他の方から可視化されているけれど、実はその下には他にも飯室の興味があることや大切にしていることがあり、そこがあるからこそ1166バックパッカーズというわかりやすい(可視化された)ものが生まれた。
自分自身が、けっこうその可視化されていない部分を大切に思っている。それは他人にもわかってもらいたい。わかってもらえると嬉しい。ではどうしたらよいのか。答えの一つとして、あといくつかの部分を可視化させることができさえすれば、今より多面的に表現してゆけるのではないか。そんなことを考えている(が、別に何かアクションを起こす…ということはまだなにも…なんですけれどもね)。
自分は勝手に解釈していないか?
自分の目の前にいる人たちも同じようなことだと思うんです。みんなそれぞれに見えていない部分の方が大きい。見えている部分だけで勝手にジャッジせずに、その水面化にどんな「あなた」が広がっているか、そこを想像しながらひとと接してゆきたいな、という話でした。
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