妄想と現実をうろうろする女 前編
あたしには好きなひとがいる。実は、ネットの世界で知り合ったひとだ。
ごめんなさい、あたし、こういう女なの。
ただ、彼とはメッセージのやりとりだけの関係。体の関係なんて誓ってない。友だちだけど、あたしは今でも彼が好きだ。あたしに恋する気持ちを思い出させてくれた、大事なひと。
彼を思うたび、あたしは妄想の世界と、現実の世界を行ったり来たりする。
嘘のようなほんとの話。ほんとのようで嘘かもしれない、彼の話。
苦手でなければ、ほんの少し聞いてほしい。無理にとは言わない。
◇
彼は、賢くてお茶目で優しいひとだ。いつもまわりを明るく照らす太陽みたい。彼の言葉はまっすぐで、いきいきとしている。そして、時折寂しげに見える、不思議な子だ。
話も微妙に合わなくて、あたしのほうが年上なのはお互いなんとなくわかっていた。「○○(彼の名前)さんというより、〇〇君だね!」と言ったら、
「○○(名前)でいいよ」
男のひとに初めてもらった言葉。でもあたしは照れて、君付けしたり、名前で呼んだりした。そして、彼はあたしにあだ名をつけてくれた。
彼との会話は、好きな音楽のこととか、家族のこと、出張で疲れたこと、そんな何気ない会話がほとんどで、ちょっとした隙間時間にお互いメッセージを送っていた。
ある時、彼から女友達のインスタグラムが急に変わったと相談された。「そんなのアピールされてるんじゃん。気にかけてほしいんだよ」「ぜったいに、気にかけたくないです!」
そんな風にたわいもない言葉を送って、次の日にまた返事が来て・・・。ゆっくり、ゆっくり彼との時間は流れていた。やりとりは8か月ほど続いた。
今はもう、彼との繋がりはない。
彼は自分の人生をしっかりと歩もうとしていた。現実の世界を大切に生きようと、携帯の中にある、あらゆる余計なものを断ち切ろうとしていた。そして、あたしもそのひとつ。それが彼の「答え」だった。
彼は11月いっぱいでアプリをやめると宣言していた。SNSの世界なのに、わざわざ気を遣って報告する義理堅いひと。周りは悲しみ、いなくなると寂しいと、彼にメッセージを送っていた。彼は人懐こく、みんなに愛されて、慕われていた。
でも、あたしは寂しいとは思わなかった。彼を引き留める気もないし、そんな権利もない。
ただ、率直に偉いなぁと思っていた。言葉は悪いが、時間泥棒でしかないこの場所から、前向きに新しい未来に向かおうとしている姿が眩しかった。こころから応援したいと思った。彼のことだから、もう戻ってはこないだろう。
あたしは「いいと思うよ。」と返事をした。
彼は誠実な人だった。そして優しかった。アプリの中では自分に似せたアバターを作ることができて、あたしはしれーっと彼とお揃いの洋服を着ていた。彼のTシャツと同じ色のハイビスカスのシャツに、ジーンズとスニーカー。髪の色も同じ。そんなことをしても、彼はなんにも言わずにいつも通りで、あたしが別の服に着替えるまで、ずっとお揃いでいてくれた。あたしが飽きて着替えたら、しょぼーん顔してたっけ。
そして、誰にも気づかれないように、時々あたしにこっそりと甘えてくれた。ほんとに、こっそりと。あたしは女として、とても幸せで、彼がくれる何気ない言葉に体の奥がじんわり熱くなって、密かに空へ飛んでいた。
彼が辞めると宣言してからの数日間は、名残を惜しむかのように皆からのメッセージが飛び交った。
「最後は笑っていたいよね」と彼に伝えた。
「だね!笑顔がいい!!」そして、あたしが夜更かしばかりしているのを知っていて「ちゃんと目、休めるんだよー」と気遣ってくれた。
「最後まで、なんて優しい男の子なの!」とあたしは彼をほめた。
◇
そして11月30日。彼との最後の日がきた。
飲み会から帰宅した彼から、メッセージが届く。
「ただの優しい男の子じゃないよ?」
時刻は22時30分を過ぎていた。
ーーーあと1時間半。
この時計の針が0時を回ったら、彼はあたしの前から消える。
かわいい男の子は、人魚姫みたいに、泡になって消えるの。
◇
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