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厳島の友成 宗盛奉納?教経奉納?


はじめに

厳島友成については宗盛奉納説と教経奉納説がある。
教経フリークにとったら、朝飯の如く毎日頭を駆け巡る難問である。
念の為ではあるが、この宗盛説、教経説で争いたい!という趣旨ではない。
元も子もない話にはなってしまうが、教経フリークの私としては、教経奉納説を支持したい。ただの感情論が私の根底にあることは承知の上で、まずはネット情報でうやむやになりつつあるこの2説の出所を整理しよう。積極的に教経奉納説のヒントになる研究がないか、1つずつ見ていこう。

宗盛奉納説

江戸時代に制作された 『厳島図絵』。
この9巻に厳島の友成は宗盛奉納と記載されている。同書は国会図書館のデジタルアーカイブで見ることができる。
しかし、この厳島図絵制作者が聞き得たソース元についてもより精査する必要があるだろう。

平宗盛
清盛の三男であり、清盛、その長男重盛亡き後の平家の棟梁である。
平家物語では頼りなく武家の棟梁にあるまじき表現が否めないが、人として、父として、戦場で散りきれないそのあまりの人間臭さが、私は好きだ。

教経奉納説

結論から言うと、『国指定等文化財等データベース』によると、ここに社伝「能登守平教経佩刀、奉納」とその来歴が記されている。
ネット記事や、刀剣雑誌として名高い刀剣画報さんの書籍では教経奉納説を採用するところが多いが、ここを参照しているのだろうか。
日本刀研究で著名な佐藤寒山先生の著書『武将と名刀』(人物往来社  昭和39年発行)でも、教経佩刀としている。

平教経
言わずもがなこのnoteの主人公である。清盛の弟 教盛の次男。
雅なお平家のイメージを良い意味でぶっ壊してくれる平家一の剛勇の武者。遺物が武具だらけなので平家物語の荒武者っぷりはあながち嘘じゃないんだろうな、と思っている。私の最推し。

『日本刀銘鑑』(雄山閣 本間薫山 校閲 / 石井昌國 著)からはこの厳島の友成の奉納者を断定する記載の確認はできなかった。
他、複数の刀剣に関する書籍を参照するも、いずれも教経説とするものはあるが、その論拠を上述のデータベース、あるいは社伝によるものなのか明記があるものは確認できなかった。
個人的にはこの「社伝」を直に確認したい。

余談ではあるが、上述の『厳島図絵』には行吉作とされる四尺もの大太刀が教経のものとされる、と記述がある。
しかし、これは『厳島図絵』内でも教経の生存期間と刀工行吉の時代が合わないことが指摘され、同書内ですでに教経の説は否定されている。
教経フリークとしては残念ではあるが、当時から教経に匹敵する武勇優れた人物を、思わず教経に託したくなった思いがあったのだろう。
当該の大太刀は『厳島神社の刀剣』(H20.泉屋博古館)にて写真確認することができる。
同書でも『厳島図絵』の指摘と同様の理由で、教経所有の説は否定されている。なお、南北朝時代の作とされている。

今後の課題

そもそもなぜ、宗盛説、教経説わざわざ二つもあるのだろうか。
平家あるあるの名前盛盛しすぎて間違えるミスでは無さそうだ。
ちなみに教経はよく、父の教盛に間違えられる。

強いていうならばどちらの可能性も潰せない、2人で奉納したんのではないだろうか。
むしろ連名ではないかと。
宗盛・教経の2人が揃うとしたら、時期的には屋島〜壇ノ浦の間であろうか。元々の太刀の持ち主が教経で、棟梁の宗盛の名前も蔑ろにできないんじゃないのか?あるいはその逆の可能性もありうる。

今後は社伝をこの目で確認すること、またその社伝がこの800年の中でどのように伝わったのか、また宗盛方法説が出てきた理由を探っていきたい。
とはいえ、二人の名前が出てくることで平氏の団結ともいえる、平氏内の従兄弟二人の仲の良さも垣間見えた気がした。

また、社伝にて「佩刀」と伝えることが興味深い。
奉納物に関しては<人名>の太刀、奉納 や <人名>奉納と表記することが一般的と思われるが、「佩刀、奉納」と伝えるところに意図がありそうだ。
そもそも奉納用ではなく、教経自身が日ごろから身に着け佩いていた日常の一振りを、彼自身思うところがあり奉納したのではなかろうか。
日常使いの一振りとあらば、手に馴染んだ思い入れの一振りかもしれない。


参考文献一覧(順不同)

『厳島図絵』
『日本刀銘鑑』(雄山閣 本間薫山 校閲 / 石井昌國 著)
『厳島神社の刀剣』(H20.泉屋博古館)
『武将と名刀』(人物往来社  昭和39年発行)
国指定等文化財データベース https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/index

2023.10.8 修正・追記
2023.10.14 修正・追記