深淵

令和5年 6月29日

 稀に、俺の日々の記録を見て反応してくれる人々がいる。不思議な感覚だ。こうして俺が綴っている言葉が、俺の知らぬ間に誰かの目について、「作品」としての形を成す過程はいまだに慣れない。というのも、俺は他者の前で感情を明かすことが苦手で、日記や詩はあくまで自分のためのものであるため、他者の目が通る想定をしていないのだ。
 しかし生きた証(風呂場のカビのような、しつこく消えない汚れ)をインターネットに残しておきたくて、誰かに覚えていて欲しくて、思うままに書いては投稿している。

 つまりは、自我の確立を、この記録を読む他者に手伝わせているのだ。

 読み手が俺を認知することで、俺は躁鬱で見失いがちな自己を他者の中に確立できる。それは記録の連なりをとってもそうだ。「この記録の一連こそ俺の日々である」という証明を残すことによって、俺は俺としての自我を保てるのだ。哲学的かもしれないが、確信がある。日記を振り返ることで、多少の自我喪失への不安はすっきりと整うのだから。

 自分のことさえ他人頼りになってしまうほど、俺は俺のことがどうでも良い。けれども他者の思考へ自我を注ぎ、攪拌することによって、個として強固になれる気がするのだ。こうしてこの記録を読んでいるあなたの思考にも、もう俺の自我が潜んでいる。恐ろしいことだね。

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