没頭2

令和5年 6月21日

 思考が氾濫して言葉が溢れるのは、鬱の状態のときだ。科学的に「言語中枢の優れる人間は鬱を発症しやすい」と証明されているらしいが、間違いないと思う。俺自身もまた、躁と鬱の波によって思考の質や量が違ってくるのだ。

 日記を書かなかった昨日と一昨日について考えていた。振り返ると明らかに躁で、やたらと元気だったのだ。エロ音声(俺が聴いているのはBLの受けの声のみが聴ける作品。ゲイ童貞の心強い味方)を4本も寝ずに聴き入るほどの気力があった時点で、疑いようもなく元気だったのだ、色々と。
 俺はこの手のエロ音声が大好きで常に新作を探しているのだが、情けないことに、声優さんの甘い声を聞いていると心地良くて、高確率でそのまま寝落ちてしまうのだ。いくら作中で激しく交わっていようとも、ガン寝出来てしまう(本当は全部聞きたいのでしたくない)。最後まできちんと聞けることなんてそもそも少ないのに、それを4本分というのは驚くべきことであって、常ならぬ気力に溢れていたのだ。色んな意味で。そうして元気(意味深)になった後も、ゲームをして遊んだり倉持めるとの配信アーカイブを見たり、非常に活動的だった(外には一歩も出ていないが)。

 何が言いたいかというと、脳みそを完全にインプット体制にしていたのだ。日記を書けるわけがない。新しいことを脳に取り入れるというのは、思考で溺れている時には絶対にできないことで、執筆および創作は鬱に近いときほど捗るのだ。
 過去の文豪たちを思い浮かべても、彼らは心を病んでいたり、人生に絶望していたりする時の作品ほど現代まで売れていたりするし、つまりそういうことなのだ。実際俺の日記も、苦しい時ほど長く言葉を連ねている節がある。

 ここまで書いておいてなんだが、本当のところ思考記録は可能な限り毎日、もらさずに記したいのだ。それが叶わなかった後悔もあるから、分析までしているわけで。明日からは1行でも、必ず何か思考=生きた記録をとろうと思う。エロ音声を聴きながら。

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