自由の回復(自死報道によせて)
7月12日の夜、つけっぱなしになっていたテレビから有名人が自死したというニュースが流れた。正確に言うと、その番組では「自殺」という言葉を使っていたのだが、自死で弟を失った遺族の一人として、私は「自死」という言葉を選びたい。自殺という単語は、弟と同様、そうせざるを得なかった人がまるで罪を犯したように感じられて、使おうとは思わない。追い込まれて亡くなった方々を死後も追い込みたくはないのだ。
自死の報道後、テレビだけでなくSNSや動画投稿サイトで瞬く間に、自死した有名人を擁護するしたり、憶測を垂れ流したりする行為を星の数ほど目にした。また、中には「自分勝手だ」と自死したことを咎めるものもあった。
報道やSNS上での意見を目にして思ったことは、「消費するなよ」だった。
亡くなった方がSNS上で誹謗中傷されていたことを見ていたならば、生きているうちに、「誹謗中傷をやめろ!」と声をあげるべきだったし、声もあげてことなかった人々が憶測で原因を語り、動画の閲覧数やSNSでのいいね数を稼ぐ姿には眩暈がする。故人を自分語りの踏み台、再生数増大装置として消費することこそまさに冒涜行為だ。
そのようなことはやめて欲しい。遺族は本当に辛い思いをするし、放っておいて欲しいだろう。それに、遺族が自死を選んだ家族に対して「自分勝手だ」と思うのならば分かるが、他人が好き勝手にそういう言葉を投げつける権利はどこにもない。
自死を選ばざるを得ない人々は、「自由」が奪われている状態だ。
ふと、「自由」という言葉は「自らを由とする」とい意味で、福沢諭吉が広めた、ということを大学時代の教員が話していたことを思い出した。
実際、『新明解国語辞書』を引いてみると、「他から制限や束縛を受けず、自分の意志・感情に従って行動する(出来る)こと。また、その様子。〔民主主義社会では、社会秩序を乱さぬ限り、その人の主体的な意志・判断に基づく言動の認められる権利を指す。〕」(三省堂,1997,p.628)とある。他人ではなく、自分を由(理由)とするから、「自由」。簡単そうだけど、自分を理由に行動することって実は難しいように思う。
自死した私の弟は、自分の意志・感情に従うことができていただろうか。分からないけれど、自分ではどうにもできない衝動的な希死念慮に駆られて死を選んでしまったのではないだろうか。そうであれば、病気によって自らを由とした行動が取れなかった。つまり、弟は彼自身の「自由」が奪われた状態で死に追いやられてしまったのかもしれない。
自分が自分らしく、その人がその人らしく生きることは誰しもがもっている基本的人権だ。
追い込まれ、自由がなくなり自ら死を選んだ人の人権がこれ以上奪われて欲しくない。
苦しかったことを理解して(しようとして)故人を静かに悼みたい。自由を回復させたい。
それが遺された人間にできる最大限のことであると思う。
同じ社会を生きる人に自死を選ばせてしまったことが悔しくて報道以来、ずっと打ちのめされてしまっていた。でも、そろそろ起き上がる。そして、自分も社会の構成員の一人なのだから、もっと希望のもてる社会にするためできることをしてゆく。それが私なりの弟への、自死した方々への弔いである。
亡くなられた方が安らかでありますよう心からお祈りします。
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