ケンドリックから考えるブラックナショナリズム

コロナ禍において再び大きなムーブメントとなったBLMを筆頭に時々聞く「ブラックナショナリズム」という言葉、特に定義されていないと思うがわかりやすく言うとアメリカにおける急進的な黒人解放運動を支持したり参加したりすることといえるだろう。しかしこの言葉は往々にしてマイナスなイメージを持って発せられている。理由はそもそもアメリカの問題である黒人差別問題がコロナ禍において世界中に拡散され、peer preasureのようなものを持ちながら拡散されたからだと思う。こと日本において黒人差別はほとんどなく、どちらかというと朝鮮系のルーツを差別する問題のほうが身近であるし、さらにそれも若い世代ではかなり解決されているように思える。確かに黒人が日本でそれを理由に職質を頻繁にされるというのは現実としてあるがこれについても人種というより非日本人かどうかが理由と考えるべきである。総じて日本には多少あれども、特定人種が警官に殺害されてしまうなどという現象は起きない国であり、実感がないにも関わらず欧米のリベラル層の「無関心は共犯」と言わんばかりの peer preasure に反感を覚えこの言葉がマイナスを背負いながら使われているというのが現状だろう。ここで最近調べていて非常に興味をひかれたのがケンドリックラマーの「Alright」という曲が過去のBLMにてアンセムとして使われていたことである。

Alls my life, I has to fight, nigga
Alls my life, I—

Hard times like, "Yah!"
Bad trips like, "Yah!"
Nazareth
I'm fucked up, homie, you fucked up
But if God got us, then we gon' be alrigh
t

個人的にこの曲はブルースの元ともいわれる黒人奴隷たちの労働歌が現代のアフリカンアメリカンの代弁者ケンドリックによって表現されている という感想を抱いた。確かに中にはFight という単語が頻繁に現れるがどちらかというと後ろ向きに使われていると思う。全体的にはかなり投げやりな、諦観的に言いつつも何とかやっていこうとする内省的な内容といえる。プロテストソングとは言えないような内容なのにも関わらずBLMという大きなプロテストムーブメントのアンセムとして使われているのである。さらにそもそもケンドリック自体インタビュ―を聞いている感じプロテストというより自分に重きを置いて曲を書いているとよく言ってる。例えば「Good kid Mad city]の「Poetic justice] 内の一節
”If I told you that a flower bloomed in dark room would you trust it?”
違約すると
俺が花(黒人)が暗い部屋で咲いた(黒人問題の解決)って言ったら信じるか? となる。
この暗い部屋というのはおそらく閉じ込められた空間、つまり外的要因ではなく花があり得ないと思われていたが自らの力で咲いた という意味合いが込められていると思う。ここからはそれぞれの価値観があると思うが個人的にケンドリックはBLMという他人に改善を促す外への運動ではなく、ドラッグやギャング、拳銃、片親、犯罪などを変えていく内への運動を大切にしているアーティストだと思う。しかしケンドリックがBLMのアンセムとして使われていたのはそもそも彼が他人に対しての主張というより自分のリアルをともに共有しょうという姿勢で取り組んでいるから勘違いされてしまったんだと思う。こういったアフリカンアメリカンの諸問題は過去の奴隷貿易による文化性の強制剥奪によって起きたことではあるが、だからと言って他人種を加害者にして自分たちは被害者だからあれもこれもすべてあなたたち加害者がやって下さいとなっているいまのブラックナショナリズムに対してケンドリックはどう思っているのかぜひ5年ぶりとなる次のアルバムで聞いてみたいと思う。


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