鮮烈な涼気

今日は中学2年生のときの、夏休みの家族旅行の話を書こうと思います。毎年恒例、年に一度の家族旅行で、この年は瀬戸内でした。


暑い。暑すぎる。

初めての瀬戸内旅行は全日を通して鬼のように暑く、私達家族は全く閉口していた。
暑いのが苦手な母親は早々に体調を崩し、体力のある父親と、地獄みたいな音楽室で毎日部活をしている私でさえも、さすがに耐え難く感じていた。旅行の終盤の方なんかは、朝食を食べながらこれからの日差しを思いやってゲンナリするほどだったのである。

単に酷暑の時に旅行してしまっただけだろうが、それにしても、こんなに暑いとは思わなかった。そもそも暑さの質が違うように感じた。
風がなく、あったとしても熱風で、太陽が近く、日影が日影でない、とにかく救いようのない暑さだった。熱線がいつもの倍吸収される感じだった。汗は流れてくれない、重力がおかしいのかというくらいに肌の上で停滞し、蒸発しないでべっとりとまとわりついた。呼吸するのがつらいのは、空気を肺に取り込む度に、身体の内側が熱くなっていくのがわかるからだった。暑さが生気を奪い取っていく、ジワジワと体力が削られる、という状況をこんなにも体感したことは未だかつてなかった。(ことに、こんぴらさん参りの話は今だに家族の間で上がる。あんな暑いときに登るもんじゃなかった。熱中症熱中症と騒がれる今だったら、取り止めにするところだ。でも以外と周りのおばさん集団とかは平気そうだったよね、おばさんすげーな。頂上に置いてあったデカい氷を3人で触りまくったよね。天国かと思った、氷のありがたみよ…といった具合である)


この日も夏の暑さは微動だにせず、3人はまるで競うように水分を摂っていた。そんな道中、しまなみ海道が通る、どこかの島を走っている間(車で、岡山→香川→愛媛→広島→岡山の順で瀬戸内地方を周る旅行だったのだ)、ちょうど海辺に立ち入れそうなところを見つけた。
車を路肩に止めて、手ぬぐいを肩に引っ掛けて浜に向かう。母は車の留守番のため、そして「暑いからムリ。外出ない」とのことで、私と父だけが向かった。

狭いあぜ道づたいに行くと、ごく短い(沿岸に沿って25m程度の)砂浜に出る。

「うわぁ」

目の前には透き通る海水がいっぱいに広がっている。
急いで足から靴をもぎ取って素足になり、駆け寄った。
膝のあたりまでざぶざぶと入り、水に浸すと実に心地よく、極楽だった。縮み上がるような冷たさを予想したのだが、そうでもなかった。

浜を見回すと、小さな兄妹と、その母親とおぼしき女性がいた。が、ずっと向こうの方だったため、声が風に乗って時折聞こえてくるばかりで、浜辺はひっそりとしていた。

潮風が、常時ふわふわとブラウスを揺らす。耳には波の打ち寄せる音が届いた。足裏に、砂のくすぐったいような感触がある。いずれも海とは無縁な人間には慣れない、新鮮なものだった。

前方には青い海が広がっている。海って、本当に青いんだな。父親は写真を撮って先に戻っていった。

心を落ち着けて、改めて、吸い込まれるような輝きを眺めた。海は母であるが、決して暖かいわけではなく、冷たく突き放すこともせず、ただ穏やかにたたずむばかりだった。

すぐ近くの、車が止まっているところでは、熱い空気が淀んでいるのに、ほんの少し歩いたこちらでは、風が冷気を絶え間なく運んでくるように涼しいのが不思議だった。じりじりと邪魔くさく感じられた太陽が、ここではただ海の水を着飾らせる素敵な役割をもってして、意地悪いところなんか全然なかった。

遠い青色が、見たこともないほどきれいだ。夏の限りない精気に満ちた光を受けて、また夏そのものの希望を反映して、優美な姿を呈しているようだ。海とは、にごって、ただの水の色、鈍い色をしているものではないのか?清く高貴で気高い、見たことなかった本来の海を心に留めた。私はなぜか、彼女の静かな横顔に泣いてしまいそうになった。時間が固体として中に溶解していって、私は触れたところから同じように溶けて、だんだんなくなっていってしまう。私は悪いモノだから。

盛夏に田んぼの真ん中に立っていて、嘘みたいな涼しさを感じることはあったけれど、それは、どちらかというとむしろ、私という存在をより強く意識することになるものだった。日常のはやての一瞬に、非日常の空間が出現して、特殊な空間に私だけが取り残され、可視化された一瞬を内側から目視するイメージである。今は、もともとが非日常であるから、さらなる特殊な空間が交わって、空気の成分の調合が変わり、もったりと時間が動くのをやめて意識を取り戻し、世界に相応しくない私は空間に存在する必要がなくなったのだった。これは、初めての感覚だった。

ずっとこうしていたいな、と思う。私がいなくてもよい世界、今が、えいえんに続けば良いのにと思った。私があの時と全く同じようにあの海を見ることはない。

私は名残惜しくここを去った。