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W1D1 ほの暗く、静かな場所で-조용하고, 어두운 것에서

 深く、深く、深い場所。
 そこでうごめく音。
 その音は福音か、あるいは地獄の呻きか。

 この世の深く、深い場所。
 地上を覆うさわやかな新緑の色や、少しだけ香る自動車の煙たい空気は、ここでは流れていない。
 地下とは思えないほど明るく、張り詰めた空気が流れている。
 そこには人間によく似た男が、恭しく座しながら、ベールの向こうを見ていた。
 ベールというよりも、帳と言った方がふさわしいかもしれないもの。
 そう思わせるのは、ここが鳥居の奥の神域、そして、彼らの長、アマテラスの居所だからかもしれない。

 アマテラスはゆったりと腰掛け、動じることなく男の説明を聞く。
 真っ白な袴を着た男は人間であり、腕には紋章と、番号が彫られている。
 彼は科学者であり、そして科学者の長であった。

「この反日民族を狩るための剣士は、氷と水を操る呪術を持つ設計となっています。身体能力は人間の百五十倍、牽引力は五百二十馬力、放射能や高温、灼熱の炎にも耐え、さらにシャチの能力を搭載するため、津波の中でも生きていけます。また、音波を用いて戦うことができます。いかがですか!」

 男は言うと、設計図の書かれた巻物をアマテラスに献上する。
 アマテラスはそれを薄い半紙をつかむようなソフトな手つきで取り上げると、開いて読む。
 しばらくするとアマテラスは「この素体は、誰になさるのですか」と、小さな声で言う。

「ええ、素体はもちろん検討しております。ポム・ルナ。反日民族である韓国人の女です。名門・川崎聖母大学社会学部に通い、IQ百六十、成績優秀で将来のノーベル経済学賞候補ともいわれています。もちろん、身体能力も高校時代に韓国国内での女子トライアスロン大会で優勝するほどの実力。彼女は我らニッポニアの尖兵として、奴隷として申し分ない存在であると言えます。そしてゆくゆくは我らの悲願、八紘一宇の国家、失われし誇りと、自主と、歴史の国を、世界を反日どもなどから救い出す正義、日本を取り戻すことにもつながっていくでしょう!」

 その言葉に、アマテラスは微笑む。
 そして科学者、石井新之助は嬉しそうにその笑顔を読み取る。

「ありがとうございます! アマテラス様!」

 石井は言うと、恭しく礼をし、その場を離れた。

 ・・

 聖書を手に取り、朗々と文章を読み上げる二人の若者。
 この、教団王禅寺兄弟教会ではひどく目立つ彼らは、ひとりは背が高い女性、もう一人は彼女に比べればすこし背の低い男性だった。
 つたない言葉遣いで主の祈りを唱える男性とは違い、女性は極めて流ちょうに、堂々とした態度で文章を読んでいる。
 女性、范涙奈(ポム・ルナ)はクリスチャンとして、いま、この客地であっても主を賛美できる幸せを味わっていた。
 一方、男性、鯱塚直也は彼女のことだからと思いつつ、読みなれない難解な言葉に、少しばかり難儀していた。

 ルナとは違い、直也はクリスチャンではない。
 それでもこうやって教会に通うのは、恋愛感情はないと思いつつも、かっこいい先生であるルナに、どこか惹かれるものがあるからかもしれない。
 そう思うと、なんだかはにかんでしまいたくなる。
 一方、ルナにとっては、こんなところに無理やり連れてくることは、もしかしたら直也にとって不快なことなのではないかと感じてしまう。
 だいたい、キリスト教なんて古臭い宗教を自分でもなぜ今でも信仰できているのか、理解ができない。
 牧師の女性、犬山百合子がリベラル派で、一部から禁忌とされるLGBTや自殺に関しても肯定的に考えているから、あるいはリベラル派として、自分たちコリアンのためにもツイッターで戦ってくれている安心感があるからなのか。
 その理由はわからない。
 それでも、なんだかんだこのように主の祈りを朗々と唱え、手を組んでほかの人のために祈っている。
 そんな自分を、ルナは嫌いにはなれなかった。

 礼拝が終わると、百合子牧師が朗らかな笑顔で出入り口で見送っている。
 ルナと直也は何食わぬ顔をして出て行こうとすると、百合子はじっとルナを見る。

「愛餐会、出ような」
「愛餐会なんて、今日はないですよね? ましてやウイルスで騒ぎになっているのに、こんな時に開いたら問題になりかねません」

挿絵101

 ルナは静かに言うと、再び出入り口を出ようとする。
 しかし、百合子はルナの服の襟を捕まえ、ルナを振り向かせる。
 そして逃げたらただじゃ置かない、といった表情でルナを見た。

 ルナはあきれた表情で百合子を見ると、直也を見る。

「ナオ。僕はどうも今日も捕まってしまったようだ。来るか?」

 流ちょうで、誰が聞いても日本人としか思えない日本語の実力。
 韓国にいたとき、小学生のころから日本語を学んできた成果だった。

「ルナが行くなら行こうかな。お酒好きだし」直也は言うと、にこりと微笑む。

 その表情にルナは救われるような気がして、再び息を吐いた。

「そうと決まれば愛餐会の準備だ。礼拝堂で聖書でも読んでいてくれ。感想は後で聞く」百合子は微笑む。

「どこを読めば……」ルナは困ったように言う。

 すると百合子はしばらく考え、適当に近くの棚にしまってあった棚から黒い聖書を取り出す。
 そしてさっと本を開くと、ルナを見た。

「ローマの五章。ね!」

 ね、という言葉にルナは一瞬困惑するも、ゆっくりと頷く。
 そしてルナと直也は礼拝堂に向かうと、タブレットでウェブバイブルを立ち上げる。

「一節ずつ読んでいこうか」ルナは言うと、直也に微笑む。

 直也は「そうだね」というと、一端中座し、聖書を取りに行った。

 ローマ人への手紙五章。
 ここには困難が忍耐を産み、それが練られて希望を生み出すと書かれている。
 百合子が適当なことをして指示した部分ではあったが、なんだか神の言葉のような気がして、読み上げたのちに思わず祈る。

 ――아무 것도 힘든 일이 일으키지 않도록.何も困難が起こりませんように

 その祈りはきっと神様は聞いていてくださる。
 そして、自分にとって一番素晴らしい結果、そして世界をもたらしてくれる。
 そう思うと、心の不安が少しだけ晴れるような気がした。

 ニ十分ほどすると、百合子は酒をもって入ってきた。
 韓国焼酎と、日本酒。
 酒好きな牧師というのもなかなか味があっていいかもしれない。
 ただ、酒豪の彼女に付き合うことを考えると、少しだけルナはきつかった。

 百合子はさすがに礼拝堂では飲めねぇよ、というとルナを連れ出し、牧師館へと誘う。

「お邪魔します……」ルナが言うと、奥からここの教会の牧師のリーダーで百合子の夫である、犬山甚太が姿を現す。
 そして少しばかり百合子を叱ると、ルナたちを招く。

「ごめんね。妻に付き合ってもらって」

 ルナは甚太の言葉に「いえ」と笑顔で答えると、そっと玄関から室内に上がる。
 部屋の奥に十字架が掲げられている以外は、普通の住宅と変わらない。
 奥に進んでいくと百合子の部屋や食卓がある。
 二人はDINKSとして、この牧師館で住んでいた。

 ルナたちが座ると、甚太と百合子が酒とつまみを準備する。
 つまみはルナを意識したのか、韓国のりとチャンジャ、それからピーナッツ、あたりめなど、コンビニで買ってきたようなものだった。
 甚太の先導で祈りをささげると、さっそく酒の席が始まる。
 そこではたわいのない話をしながら、暖かい時間を過ごす。

「で、聖書の感想は?」百合子がにやにやと笑う。

「そうですね……。僕は希望をもって生きているつもりなのですが、さらに希望や忍耐を練る必要があるのかな、と思わされました。ただ、僕はそれなりに頑張ってきたつもりですし、ご利益を願うわけではありませんが、どうか平穏な日々が過ごせたらな、と思うんです……」

 ルナは言うと、にこりと微笑む。
 一方、百合子はそうだよなぁ、とじっと考えるそぶりを見せた、
 そしてしばらく何も言わない時間が過ぎると、百合子は少しばかり言いづらそうに「ルナちゃん」と発する。

「韓国からきて一年くらいたつけれど、そろそろその苦労なんかもまとまってきたんだと思う。たぶん何もないとは思うけど、次の自分になるためにまた課題が与えられるのかもね」

 その言葉に、ルナは背筋が伸びる。
 一方、烏丸は百合子を見て、「やめなさい」と言いたげな顔だった。

「でもね。第一テサロニケ十二章からじゃないけど、いつも喜んで、祈って、感謝しな。私はそれができなかったからかなり苦労した。でもあんたならできるさ!」

 その言葉が励ましなのか、それとも酔っぱらった勢いで言った世迷いごとなのか、ルナには少しばかり判断に困る。
 しかし、その言葉は武器になるような予感がして、ルナはゆっくりと「わかりました」と頷いた。

 それからしばらく酒を飲み続けているうちに、新百合ヶ丘駅へと向かう終バスが終わってしまい、直也は帰れなくなった。
 牧師全員が酔っぱらっているのもあり、直也はその日は牧師館で泊まることとなり、ルナは一人で家まで向かうこととなった。

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