『ドラゴンクエストⅣ』の〈どうのつるぎ〉が100ゴールドであることについて——価値の根拠について2

「価値そのもの」に基づいた値段設定というのは無理だろうという話。「価値そのもの」を設定できないので、物でもサービスでも主観的な価値判断に基づく値段設定か、双方の主観の合意による——需要と供給の一致による値段設定しかあり得ないのではないか。そう言いたい。

 わたしが最初にこのことに疑問を感じたのは、マルクスの価値論についての本を読んだあとのこと。どうもマルクスは「物やサービスの値段はそれらが持つ『価値そのもの』に基づいて決定すべきである。需要と供給の関係に基づいた値段では、売り手側が少数の場合に談合による値段の吊り上げがあったり、逆に買い手が少数の場合に売り手が不当に買い叩かれることがある」と考えているらしく思った。そのために、労働者が資本家に安い賃金で使われることが起こるという。

 マルクスは物の価値として「投入された労働力の合計」を主張している。しかし、わたしの考えでは、それは仮に算出できたとしても積み上げ方式の数値なので、価値として通用しないという結論になった。
 これは、「将棋の評価値についての命題集」の冒頭で触れた、チェスの駒の得点による有利不利の評価方式と同じで、取った駒の特点合計が本当の形勢評価値を示してはいないのと同様、その物・サービスの本当の価値を示してはいない。示しているのは、その物・サービスを作り出すのに投入された人びとの苦労の合計である。
 それだと、4時間かけて掘った2メートルの穴より、4時間かけて掘ったあと2時間かけて埋めた地面の方が価値があることになる。また、組み立てられた椅子より、その椅子を小刀で削って作り出したおがくずの山の方が価値があることになる

 また、上記の理屈を応用して、「完全に合理的な善悪判断(無前提での善悪判断)というのも無理だろう」と言える。

 以上をはっきりさせる方法として、いきなり現実を考えるのは複雑になるので、まず単純なゲームの世界を分析の対象にした。さらにゲームのうち、ドラゴンクエストの〈どうのつるぎ〉を対象にした。〈どうのつるぎ〉の値段は『ドラゴンクエストⅣ』では、ゲーム内のどこの店で買っても100ゴールドである。『ドラゴンクエストⅣ』にしたのは、ちょうど100ゴールドであることと、売っている町が多いからである。ほかのタイトルでは、売っている町が限定されていたり、270ゴールドだったりする。

〈どうのつるぎ〉の100ゴールドという値段は合理的であること

 以下の三つの観点から、〈どうのつるぎ〉の100ゴールドという値段が合理的であることが説明できる。

▼1 値段の決まり方 この値段は需要と供給によって決まった値段ではない。ゲーム制作者がゲーム全体の要素を考慮に入れて意図的に決めた値段である。

▼2 用途が限定されている 〈どうのつるぎ〉は武器である。『ドラゴンクエストⅣ』ではそれ以外には使えない。銅として(*)、ほかのアイテムの調合材料に使うことはできない。用途が限定されている。だから、物の価値としては——あるいはこういう言い方のほうがいいなら〈使用価値〉は、武器として以外にはまったくない。価値を特定しやすい。

(*)ドラゴンクエストの〈どうのつるぎ〉は英語でもCopper Swordなので純銅の剣である。青銅の剣を便宜的に〈どうのつるぎ〉と表記しているわけではない。

▼3 目的に見合っている 武器としてしか使えないので、敵を倒すために使う。敵を倒すのはレベル上げのためで、「最後のボス」を倒すことが最終的な目的である。その際の攻撃力と値段がちょうど釣り合っている。釣り合っているとは、プレイヤーキャラのレベルと、そのレベル帯で戦う敵の強さに見合っている。これは当然で、その時点で大体そのていどの強さの武器をプレイヤーが得られるよう、制作者が調整している。また、武器として持っている性能(攻撃力)に見合うよう敵の強さを調整している。

 以上のことは、現実ではあり得ないことである。

一方、現実では合理的な値段はつけられない、なぜなら……

 仮に現実にこのような純銅の剣があったとして、いわゆる「適切な値段」をつけようとするとどうなるか?

▽1 値段の決まり方 現実では、物の値段は不完全ながら需要と供給の関係で決まる。談合(カルテル)で決まる場合も多々あるにしても、それでも時間的空間的にかなり大きなくくりで見れば、だいたい需要と供給の関係で決まる。また、もし、自主的に値段を決めるとして、どれだけの要素を考慮すればいいのか、それだけの要素で本当にすべてなのかがはっきりしない。少なくとも、ゲームでの「最後のボスを倒す」という目的に相当する、「この世の目的」が特定できていない(*)。

(*)「特定できない」ではなく、「特定できていない」。厳密には、この世の目的を特定できていないと同時に「この世の目的がない」という証明もできていないから。ただ蓋然的には、あるという証明もないという証明も無理だろうと思う。

▽2 用途が決まっていない 現実では、純銅の剣は武器として使う以外にも使い途がある。重し、刃物、インテリアくらいはすぐに思いつく。また、原材料の銅として使う場合は、さらに使い途に幅が広がる。無限と言ってもいいくらいに広がる。一つの物が、複数の(無数の)使用カテゴリ違いの価値を含んでいることになる。純銅の剣は一応武器として作られてはいるが、別に誰かから——例えば神からそういうものとして設定されたわけではない。ただ存在しているだけである。武器以外の用途に使っても神やゲームマスターから罰せられるわけではない。だから、価値が特定しづらくなっている。使用上の思わぬ価値が見つかる。

▽3 目的が何なのかわからない 用途が限定できない上に、そもそも現実では、最終目的がはっきりしない(*)。現状では、ゲームでの「最後のボスを倒す」という目的に相当する、「この世の目的」が特定できない。ここで問題にしているのが、価値そのもの=絶対的な価値=何に対しても客観的になりうる価値基準である以上、「この世の目的」に対する価値でなければならない。いくら、考えられうる限りの用途上の価値を合計できたとしても、「何かの調合材料になる」ていどの目的に対する価値では、ほかの事柄に対する基準にならない。

(*)最終目的がない、のではなく、はっきりしない。前出の註と同じ理由による。

結局、ゲーム制作者は何を根拠にして〈どうのつるぎ〉の値段を決めているのか? また、現実ではその決め方は通用しないのか?

 つまり、「最後のボスを倒す」という目的をもっとも根源的な根拠として、その根拠から逆算して〈どうのつるぎ〉100ゴールドという値段を決めている。最後のボスを倒すためには、物語を進める必要がある。物語を進めるには、レベルを上げる必要がある。レベルを上げるためには敵を倒して経験値を稼ぐ必要がある。敵を効率よく倒すには武器を装備するのがよい。その武器の一つが〈どうのつるぎ〉でその攻撃力(敵を倒す効率を上げる価値)に見合った値段が100ゴールドである。

 一方、現実の純銅の剣は、第一に、価値の根拠となる「この世の目的」が定義できないので、価値が算出できない。第二に、用途も多様すぎて、どの使用上の価値を採用したらいいか、平均や合計をとればいいのかわからない。第三に、ゲームと違って未知の要素が多すぎ関連要素を知り尽くしたか確認できない、しかも知ることのできない未来の技術といった要素もある(*)。

(*)この世の最終的な目的までいかなくとも、現実では、未来の重要な要素を正確に知ることもできない。例えば、中世ヨーロッパの時代に、のちにコークスによる製鉄ができるようになるとは、たぶん誰も予想できなかった。この当時のヨーロッパでは、製鉄には木炭を使っていた。青銅器時代の人間にとって、加工できない鉄鉱石やアルミニウム鉱石はただの石だった。

適正な値段の決定方法

 以上の論説から、適正な値段の決定方法は、以下の通りである。
1. 最終目的を定義する。
2. 最終目的までの行程と関連要素をほぼすべて明らかにする。
3. ある物が、最終目的へ到達するためにどれだけ役に立つかを割り出し(だいたいでもいいから割り出す)、数値化する。これがその物の価値となる。
4. 3で決定した価値を基準にして、ほかの物と比較して値段づけする。

 これで、完璧ではないにしても、まずまず納得のいく値段づけができる。

物や行動の価値とはつまるところ、「目的達成時点」や「理想の状態」や「全体の価値の総量」を基準として、その物や行動が基準に対してどれだけの割合を持つか、ということ

 前節で説明した価値の在り方について定義すると、この小節のタイトルのようになる。価値は、積み上げ方式では算出できない。割合方式で算出された数値でなければならない。

 価値は積み上げ方式では算出できないというのは、例えば、重さや長さのように、基準となる単位を決めただけでは、価値は算出できないということである。これだと、価値を含まない数値が示されるだけである。

 100ゴールドはドラゴンクエストでははした金だと判断できる。それはほかのアイテムの値段との比較による。ほかのゲームでは、100ゴールドが大金の場合もある。それは、そのゲーム内のすべてのアイテムの値段との比較による。これは、現実の場合で「100円が大金かはした金か」という方がわかりやすいかもしれない。100円の価値は、ほかのすべての物との比較による。明治時代の100円はそれなりに大金だった。単純な企業指数計算では明治30年ごろの100円≒14万円くらいだが、当時の物価や賃金水準まで考慮すると現在の200万円くらいになるらしい。

 価値を算出するためには、割合方式(100分率のような割合)でなければならない。あるものが全体に対してどれだけの割合を持つのかが価値の意義である。例えば、将棋やチェスの評価値は、全体(評価値満点)をどちらかが詰んだ状態としている(*)。その詰みの状態を基準とするから、一手の価値(評価値)が算出できる。ただし、その一手の評価の数値はその対局内のみの価値を表す。ほかの対局の一手の価値とは比較できない。ほかの対局は全体の中に含まれていないからである。

(*)積み上げ方式のチェスの駒の得点だけでもある程度、形勢を判断できるのは、得点がすべての駒に振られているから。一方、取得駒の得点合計だけでは厳密な形勢判断に不備が生じるのは、手番と盤面の状況が考慮に入っていないからである。

 全体の価値の総量が決まって、はじめて部分の価値が決まるというのは、ちょうど、「右」は右だけでは存在できないのに似ている。「右」の意味は、上下左右前後のすべての方向が先に存在して、はじめてはっきりする。

マルクスの価値論への回答

 以上のようなわけで、冒頭で述べた通り、マルクスの価値論は成り立たない。この世のほぼすべての要素(「この世の目的」を含めた要素)を先に把握しない限り、一つ一つの労働や商品の価値が算出できないからである。
 また、絶対的な価値基準が設定できない以上、剰余価値の剰余も、剰余だとは判断できなくなる。価値循環も成り立たない。これがカロリー循環なら成り立つかもしれない。一応、「適正な賃金は、労働者の一家族が充分文化的な生活ができる程度である」という設定はできるものの、それは人情を根拠にした賃金設定であって、科学的根拠はない(*)。

(*)マルクスの価値論の不備については、日本でも70年代にはすで知られていた。『世界の名著マルクス』でも取り上げられている。また、Wikipediaにも「転形問題」の項目がある。

完全に合理的な善悪判断(無前提での善悪判断)が無理であること

 冒頭で述べた二つ目のこと。ある行動が正しいかどうか(善悪判断)にも同じことが言える。絶対的(=客観的)な善悪や絶対的な有用性を判断しようとすると、絶対的な価値基準を設定し、それと比較しなければならない。絶対的な価値基準を設定するためには、「この世の目的」とその行動に関連するほぼすべての要素を考慮に入れなければならない。しかし、「この世の目的」が回答できない。ゆえに、絶対的に客観的な価値基準は設定できない。絶対的に客観的な価値基準は設定できないので、ある行動について、完全に客観的な善悪を判定することはできない。

追記 ウィリアム・ジェームズ(プラグマティズム)の有用性の否定

 また、ウィリアム・ジェームズ(プラグマティズム)の言う「有用性」も成り立たないことがはっきりする。同じプラグマティズムのパースの「有用性」は、何かの何かに対する有用性のことで、相対的な影響を指していた。ところがジェームズの「有用性」は単に「有用性」としか言っていないため、絶対的な有用性になってしまう。これは「この世の目的」に対する有用性ということになる。しかし「この世の目的」は今のところ回答できないため、有用かどうかを判定できない。ゆえに、ジェームズの「有用性」は成り立たない。

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