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西洋哲学史のまとめ——あるいは、伝統的哲学と現代哲学の違いについて

■序論(あるいは結論):違い=絶対的な価値基準のあるなし

 伝統的哲学(*)と現代哲学の違いは価値基準です。
 無前提での(客観的な)価値基準、そういうものを設定できると考えているかどうか
「客観的」というのは、相手の同意がなくとも基準を判断できる、ということです。「絶対的」と言いかえてもいい。
 伝統的哲学では「設定できる」と考えていた。現代哲学では「設定できなさそう」と考えている。

(*)伝統的哲学という用語はない。この単語は貫成人/著『哲学マップ』第11章に出てきた単語である。現代哲学以前の、古代哲学、中世哲学、近世哲学、近代哲学をまとめて、貫氏が何気なくそう表現したもの。それを使わせていただいた。

 哲学の時代区分については、『哲学マップ』第1章に、次の区分がある。
 古代哲学:ギリシア哲学
 中世哲学:キリスト教の諸問題を巡る議論(紀元1世紀から17世紀まで)
 近世哲学:ルネサンスから啓蒙時代くらいまでのもの(中世哲学と時代がかぶっている)
 近代哲学:18世紀終わりから19世紀の産業化を基盤とした社会秩序に関連するもの
 現代哲学:20世紀以降の、近代哲学の矛盾を明らかにするもの

 ニーチェが近代哲学と現代哲学の分水嶺らしい。後述のマルクス、エンゲルス、ミルあたりは近代哲学に分類される。パースは、どちらにも分類できそう。

 たとえば、こんな質問の回答。
 ——正しいことの基準とは何なのか(善の基準とは何なのか)?

(回答)無前提では、何とも言えない(=蓋然的に言って、善も悪もない)。
 もしあなたが嘘や殺人が悪いことだと無意識に判断するとしても、じつはそれは理性による判断ではない。単にあなたが生まれ育った社会でタブーとされていたため、そのように習慣づけされているだけである。習慣づけによる思い込み(刷り込み)である。習慣づけがなくなれば、あとには何も根拠はない。

 伝統的哲学では「最高善」だとか「イデア」だとか「道徳法則」だとか、不用心に無前提での絶対的基準が成り立つと考えていたのが、現代哲学は用心深く「人間の善悪判断・価値判断は何かを前提にしている」と疑ってかかる。無前提の(たとえば理性による)善悪判断・価値判断はあり得ないと考えてかかる。

 現代哲学はその「何かの前提」を分析して、はっきりさせようとする。逆にいうと伝統的哲学は無前提での「正しいこととは何なのか?」に回答しようとしてきた学問だったわけです。哲学者たちは、相手の同意がなくとも善悪の判断ができるような基準を発見しようとあれこれ理屈をいじってきた。自然法則の探究もその一環——客観性の追求の一環だった。「絶対に正しいこと」をはっきりさせようという探究だった。

■本論:西洋哲学史(ざっくり)

 西洋哲学の系譜は、ギリシア哲学とキリスト教を二本柱として、それがルネサンスで合流して、大陸合理論とイギリス経験論に分かれる。その二つがドイツ観念論で合流する。その後、ドイツ観念論からは実存主義、マルクス主義、プラグマティズムが出て、イギリス経験論からは功利主義と分析哲学が出た。だいたいそんな感じになる。

西洋哲学系譜図(簡略版)

 歴代哲学者の中で、たぶん一番上手く無前提での善悪判断を説明してみせたのが、ドイツ観念論のカントです。「理性に従えば、道徳法則にのっとった善悪判断できる」といった。ところが、その一番上手いカントの理屈ですら間違っていた。
 実存主義に分類される哲学者のニーチェが反論した。その反論のだいたいの内容が冒頭での回答。

▽ギリシア哲学——プラトン vs プロタゴラス、勘違いの発端

 ギリシア哲学のプラトンが『テアイテトス』でソフィストのプロタゴラスの価値論に反対した。それが、ことの始まりだったんです。
 プロタゴラス曰く、だいたいこんなことを言ったらしい。
「人間が万物の尺度である、在ることについても無いことについてもそれなりに。つまり、何ものもそれ自体で何かである、のではなくて、おのおのとの関係によってそれを見聞する者にとっての何かであるに過ぎないのだ」
 プラトンにしてみればそれは納得にいかないことだったので、こんな反論をした。
「同じ北風が吹いてもある人はひどく寒いと感じるだろうが、ほかのある人はそれほどでもないと感じることがある。それではまるで、測る者によって目盛り幅が違うものさしだ。いや、それどころか、同じ人でも朝と夕方で目盛り幅が変わることすらある。そんないい加減なものさしが人間だ。尺度(基準)になどなるわけがない」
 だから尺度は絶対的な基準に求めるべきである、と主張した。最高善だったり、イデアだったり、理性だったり。その後、西洋哲学はニーチェが出てくるまで、プラトンの方針を継承して変更することがなかったわけです。

▽キリスト教の影響——神=価値の根拠

 キリスト教的価値観も一役買った。絶対的基準と一神教は相性がよかった。しかも、キリスト教的価値観がヨーロッパの事実上の標準になってからは、誰もうかつに神を否定もできなくなった。汎神論や理神論ですら、主張しようものなら無神論者よばわりされて、異端審問にかけられたり、社会的に抹殺されたりした。これは18世紀末のカントの時代になってもまだその風潮が残っていたらしい。プロシアの反動的な保守政権が実績づくりのためにカントを問責したことがあった。そのせいでカントは危うく異端審問にかけられそうになったことがありました。その後、19世紀後半にニーチェが「神は死んだ」と言ったときは、心良くは思われなかったにしても異端審問にはかけられなかった。さすがにここまで時代が下がると、キリスト教的価値観の縛りも弱くなっていたらしい。

▽ドイツ観念論——絶対的価値の一番うまい説明

 ドイツ観念論は、観念論というだけあって、唯心論=主観ありきの思想です。カントの場合は多少、〈物自体〉という言い方で客観の要素を残していた。これがヘーゲルになると、完全に主観だけですべてを説明しにかかった。
 カントの世界観は、目的合理性を価値とする静的で完成されたもの、というイメージです。自然界は、人間にとっては感覚器でとらえられる現象の世界でしかない。その現象世界は自然法則に支配された他律的で不自由な世界。一方、非物質的な思考の世界は自然法則に支配されていない自律的で自由な世界。人間は思考上でのみ本当に自由である、ということ。思考の世界の秩序は理性的な道徳法則に支配されている。道徳法則に沿う行為とは、それを行なったすべて場合にダブルスタンダードにならないような行為をいう。この思考世界の整合性(道徳法則)に沿うことは善であり、これができてはじめて、その人は幸福を得るためのスタートラインに立ったと言える。
 ヘーゲルの世界観は、自由を価値とする動的なイメージ。客観なしに存在を説明するので、主観と現実が一致していることになる。社会はそれぞれの人の主観のるつぼである。人々は社会において理性的に衝突を避けるため、お互いの主観的自由を相互承認して共同と利害のバランスをとる。時代が下がるほど、知識の共有や技術の向上によって、お互いの主観的情報共有=相互理解は広がっていく。人類すべてがお互いを知って、より自由になっていく。理解しさえすればより自由になる(あとは各人が何とかする)。ただヘーゲルの考えも人間に理性があることを前提にしている。

▽実存主義——絶対的(客観的)価値の否定、自分にとっては絶対じゃないから

 ここからは、図の一番下に来ている思想を見ていきます。

 まず、ドイツ観念論から延びる三つの道筋、実存主義、マルクス主義、プラグマティズムのうち、実存主義を見てください。実存主義の最初に来るのはキルケゴールなんですが、この人、哲学者というより宗教家です。それもあって、ヘーゲルの提案した「できるだけみんなの納得できる自由(国家の中での自由、社会的価値)」を拒否した。彼の言い分はだいたい次のとおり。

 隣人たち全員がイモを食べても、私のケツから屁は出ない。
 私は、「隣人を幸福にしたから社会のために貢献したから、あなたの行動には価値がある」などと言われても虚しく思えるだけだ。そんなふうに自分に言い聞かせるとしたら、それは自分で自分を誤魔化しているということだ。私にとってはヘーゲルの「みんなのための自由」という提案に価値があるとは思えない。私にとって価値があるのは、私がそのために生きてそのためなら死んでもいいと思えるようなものだけだ。

 かといって、社会の中で倫理的であろうとしても、他の人々との折り合いから上手くいかない。完璧な倫理状態は達成されない。本当に自分の正しいと思うことを押し通そうとして、「それが正しい根拠とは何?」と問われると神くらいしか思い浮かばない。宗教的(キルケゴールの場合はキリスト教的)にならざるを得ないわけです。
 キルケゴールは馬鹿正直に、キリスト教の主教相手にそういう主張をして論争することになった。論争には勝ったがそのほかに何も得るものはなく、42歳のとき散歩中に倒れて病院に担ぎ込まれたが、そのまま死去。キルケゴールは、不健康な生活(砂糖の摂りすぎ)や、婚約破棄や、こうした論争や、放蕩生活での経済状態の悪化や、とにかくストレス原因をたくさん抱えていた。早死にはたぶん、それらのストレスのせいではないかと。

 その後、キルケゴールの言い分をさらに徹底したニーチェの主張は冒頭で述べた通り。つまり「神は死んだ」。神も価値・善悪の根拠にはならない。ある人が無前提に(カントがいうところ理性で判断して)善だと思い込んでいたことは、その人が育ってきた社会で慣習的に善だとされている価値観にすぎない。それを取り去ると後には根拠は何も残らない。したがって、真正の価値はおのおの自分で判断するしかない、という。
 その後の実存主義は、ヤスパースもハイデガーもサルトルも(この人を入れていいなら)和辻哲郎も、存在自体にできる限り無前提での意義を求めた。その主張はおおよそこんな感じ。

 人間は生きているかぎり何かほかの事物・人々と無前提でつながりをもたざるを得ない。そうしたつながりもその人の存在の一部である。逆にその人はほかの事物・人々の存在の一部となっている。そうした間柄には意義があると言えるのではないか。つまり、人間は社会の中で生きるだけで、他の事物や人々とつながり(もしくは、つながりによる活動)による意義があるのではないか。

 ニーチェの虚無的な世界観には耐え難かったのか、後続の実存主義者たちは何かしらの意義(価値)を設定したがった。「生きていることそのものには意味がない」と言いつつ、「他のものとの関係によって意味がある」とか、「何かすれば意味が生じる」とつけ加えたわけです。

▽マルクス主義——観念論に対する「唯物論」、物こそが客観

 次、マルクス主義。
 マルクスは、自由を価値とすることには同意するらしい。この点ではヘーゲルに同意する。しかし、マルクスは唯物論者であって、ヘーゲルの自由を実現するイメージ的な方法には同意しません。自由は、気持ちの問題ではない。お互いの状況を知るだけでは充分ではなく、自由の実現のためには物理的な状態(制度)を整える必要がある。唯物論なので、ことの本質は概念ではなく〈物〉のほうにあるという理屈。だから、善悪や価値の根拠は社会構造だという。唯物論からすれば、物理的な状態=社会構造で正義が決まる。ハードウェアにソフトウェアはインストールできるけれども、ソフトウェアにハードウェアはインストールできない。存在から思考は出てくるが、思考から存在は出てこないという。
 古代ギリシアの奴隷制社会や、中世ヨーロッパの封建社会や、近代ヨーロッパの資本主義社会は正義ではない。これらの社会では、どんなにその社会制度の中で公正な政治が行われたとしても、その社会構造自体が悪を含んでいる。自由になるためには階級を解体しなければならない。ただし階級のあり方はその時代によって違う。現代(マルクス当時の)の場合は、資本家と労働者という階級になっている。資本家のもつ不正な力の源は生産手段を私有していることである。これによって労働者たちをいいように使っている。具体的には、労働者たちの取り分をピンハネするのと、作業効率だけを目的にした分業をやらせている。この二つのせいで労働者たちは自分の人生を奪われている。生産手段を労働者たちの共有にできれば(共産制社会)、労働者たちは人生を取り戻すことができる。なお、生産手段を共有にするための手段は問わない。資本主義社会自体が不正だからである。不正を正すための手段は暴力でもなんでもいい。

 マルクスは正義の内容を定義しなかった。ヘーゲルの『法の哲学』のような則るべき規準(規則)をはっきりさせる議論をしなかった。ロールズの『政治哲学講義』でこのことが取り上げられています。マルクスが唯物論者だったことを考えると一応、説明はつきます。マルクスにとって正義は内容でなく社会構造そのものだった。共産制社会が実現されれば、正義も実現される。資源の無駄づかい、分配の不正、賃金制度、分業がなくなる。労働はすべて意味のある仕事になる。労働者たちは心のおもむくままに振る舞えるようになる。あらゆる活動に自由に取り組むことができるようになる。つまり、マルクスの思い描く「善いこと」は規準の内容ではなく、社会構造(思考ではなく存在)だったという。
 ただそれでも、あまりにも共産制社会で実現される内容やそのための制度についての説明がなさすぎるとは思います。まとまった説明は『共産主義宣言』に十ヶ条があるくらいなので(*)。

(*)そうすると、共産制社会が「世界一美しい絵画」のようになってしまう。つまり、おのおのが想像した世界一の絵が見える、という。人によって見える絵が違うんです。おのおの自分の理想の美しい絵が見える。せこい政治家がわざと公約を曖昧に表現するみたいな。共産制社会もそれと同じになってしまって、おのおのの問題が解決された社会を想像する。
 このことは、共産制社会の実現の過程で、次のような手続き上の行き違いが発生する原因になったようには思います。
a) 生産手段を労働者で共有することによる自由を、具体的にどういう制度で成り立たせるのか? 自由ではないように見える一党独裁のソビエト連邦のやり方は失敗だったのか?
b) 共産制は世界全体でやらないとダメなのか? たとえば、一国での暴力革命ではダメで、世界全体を革命するまで自由はお預けになるのか? 一国での革命に成功しても、その後、世界をくまなく革命するまで何十年も一党独裁の体制下で「(自由を)欲しがりません勝つまでは」の状態が続くのか?

 マルクスの価値論はポカだと思います。形而上学の名残りじゃないか、って。労働量を絶対的な価値基準にできると思い込んでしまった。問題は、労働を基準にしたことではなく、〈絶対的な価値基準〉を設定できると思い込んだことです。価値は、長さや重さの単位のように積み上げ式で使用できるものではありません。価値は割合を示すものなので、無前提で「価値」と言ってしまうと、「この世の目的に対する割合」というようなものになってしまう。先に「この世の目的」をはっきりさせる必要が出てくる。あるいは、価値循環ではなくカロリー循環なら、まだ科学的だったかもしれません。
 このような価値の概念については、詳しくは『「ドラゴンクエストⅣ」の〈どうのつるぎ〉が100ゴールドであることについて』で説明しておいた通りです。

▽プラグマティズム——限定つきの客観、「絶対的」はあり得ない

 カントの〈普遍的な目的合理性〉に噛みついたのが、プラグマティズムのパースです。「その思想が何に対して有用性を発揮させようとしているのかをはっきりさせろ。誤魔化しを許すな」というのがパースの主張です。逆にいうと、「それぞれの思想には哲学者本人の主観的な本音が仕込まれている。本当に普遍的な目的に対する有用性などあり得ない。有用性は何かの何かに対するものしかあり得ない」ということ。ゆえに、正しさは蓋然的な(統計的な)正しさ以上にはなり得ない、ということになる。

 ところが、パースのプラグマティズムに賛同した心理学者のウィリアム・ジェームズが、この〈有用性〉を真理の判定に使ってしまった。これは変な話で、真理の判定に使うとなると、〈無前提無制限の有用性〉になってしまう。「この世の目的」に対する有用性ということになる。ドイツ観念論への後戻りになる。パースはこのことを怒って「自分はそんなこと一言も言ってない。ジェームズはプラグマティズムの意味を理解していない。でも、私よりジェームズの方が有名だから、私がいくら正しいことを言っても誰も聞いてくれないだろう。だから、これからは私はプラグマティズムではなく、プラグマティシズム(真プラグマティズムくらいの意味)を名乗る」みたいなことを言った。

 実際、ウィリアム・ジェームズは心理学の教授で、名前も知られていて、今でいう情報の拡散力もありました。自分流に解釈したプラグマティズムの思想を講演やエッセイで紹介した。一方のパースは測量の仕事に就いていて、その分野では高い評価を得ていたものの、哲学の分野ではパッとしない存在だった。その原因の一つに、パースは人格的に問題のある人で、かなり嫌な性格で嫌われ者だったことがあるらしい。一時期、教授職に就いたこともあったものの、数年で理由不明の罷免。その後も哲学については、論文の出版どころか、発表もほとんどままならなかった。ようやく死後になって、論文集が出版されて思想の詳細が知られるようになった。この間に、プラグマティズムの内容は、ジェームズとその後に世に出たデューイの主張した内容でだいたい評価が定まってしまっていたという。

▽功利主義——善を計量する具体的方法、人間を基準に

 功利主義は形而上学がない思想で、だいたいこんな内容。
 ——人間の目指す目的は幸福が望ましい(*)。幸福とは快楽もしくは苦痛の欠如である。ゆえに、幸福の多寡で善悪判断が可能になる。基本的に、効用がマイナスなら悪いこと、プラスなら善いことである。さらに、効用の度合いによって、善さ・悪さの比較もできる。そして、そうした幸福の人類全体での総量が最大になることが望ましい。
 ところが、代表的な思想家であるベンサムもミルもそれぞれちょいと問題があります。

(*)ベンサムは『道徳および立法の諸原理序説』(1章3節)で、「功利(utility)とは利益、快楽、便宜、善、幸福であり、幸福については、当事者が社会の場合は社会の幸福、特定の個人の場合はその個人の幸福である」と言っている。
 これについて思うのは、第一にベンサムはできるだけ形而上的な誤魔化し抜きで答えようとしていること。第二に猫の幸福(功利)は除外していること。

 まずベンサム。彼は、七種類の基準(強さ、持続性、確実性、遠近性、多産性、純粋性、範囲)を使うことで、この世のすべての幸福(快楽)を数値化できると考えた。これには問題点があります。
▼問題点1 そのような数値化は無理である。何か一つの行為——たとえば、電車で妊婦に席を譲る行為——8の幸福ですら数値化できない。
▼問題点2 また、ベンサムは見落としがあった。価値を判断するには個別の数値より先に、この世の価値(ベンサムの場合は快楽)の総量を算出する必要があることに気づかなかった。仮にある行為の快楽を算出できたとしても、その数値が高いか低いかは、全体を一覧しないとわからない。

 たとえば、スプーン一杯の砂糖が多いか少ないかの判断は、溶かす液体の量と甘さを感じる人の感覚による。わたしにとっては、コーヒーに溶かすとしたら、スプーン一杯の砂糖は、コーヒーの量が200mlくらいならちょうどよく、50mlだと多すぎると感じる。
 価値の内容については、エッセイ『「ドラゴンクエストⅣ」の〈どうのつるぎ〉が100ゴールドであることについて』も参照のこと。

▼問題点3 このやり方だと、体罰とか殺人も、電車で妊婦に席を譲る行為と同じレベルで効用判定をすることになってしまう。

 また、問題のある選好として「束縛性の強い宗教」があります。信徒の生活にまで細かい戒律を要求する宗教です。ところがこのような宗教は、受信者本人の幸福度は高くなる結果が出ている。ベンサムの基準ではこの「束縛性の強い宗教」を選んでしまうことになるんです(*)。

(*) たとえば宗教の束縛性と信徒の精神状態について、シーナ・アイエンガー『選択の科学』にこういう事例があります。

▼調査対象
a) 信徒に多くの日常的な規則を課す原理主義(カルヴァン主義、イスラム、正統派ユダヤ教)
b) 保守主義(カトリック、ルター主義、メソジスト派、保守派ユダヤ教)
c) 最も規則の少ない自由主義(ユニテリアン主義、改革派ユダヤ教)

▼調査内容と結果
 宗教が生活にあたえる影響(食べ物、交際、結婚など)
⇒原理主義的信仰を持つ人たちが最も高いスコアを示し、自由主義的信仰を持つ人たちのスコアが最も低かった。
 逆境に対する姿勢(楽観論の度合い、体重の減少、不眠、うつの症状など)
原理主義に分類された宗教の信徒は、他の分類に比べて、宗教により大きな希望を求め、逆境により楽観的に向き合い、鬱病にかかっている割合も低かった。悲観主義と落ち込みの度合いが最も高かったのは、ユニテリアンの信徒、特に無心論者だった。

 ただし、これらは伝統的な宗教であって、最近問題になっているような怪しい新興宗教(多額のお布施を要求したり、教団への無償の奉仕を強要したり、家族の入信を要求したりするような)ではありません。

出典:シーナ・アイエンガー/著 櫻井祐子/訳『選択の科学』p50-52より

 そこで功利主義を継承したミルが、選好に質的な要素を加えます。
 人間には知性がある。普通に考えて、功利主義的な選択をするからといって豚のような選好はしない。中には変わり者もいるだろうけれども、それでも多数決で善いもの悪いものを判断して集計をとれば、だいたい善いものを選ぶはず。また、カントのような道徳法則に基づく普遍的な行為かどうかの判断とも矛盾しない。併用すればよい。
 だいたい図のような選好モデルになります。

功利主義の判断フローチャート

 二段階になっていて、第一で道徳的な選好をおこなって、善悪を判定する。悪と判断されたものは除外する。第二で功利の量的な選好をおこなって、善い行為かニュートラルな行為から望ましいものを選ぶ。そのときには、自動的に人間の知性が働いて質的判断を同時におこなう。
 この方法でしたら、道徳的に見て悪い行為は最初の選好で取り除ける(道徳的判断なので、正確には「選好」ではないのですが……)。

 問題は、これはすでに功利主義とは言えないのではないか、ということ。善い悪いの判定に、功利以外の基準をがっつり使ってしまっているからです(*)。

(*)ミルは『功利主義論』(第5章)の中で、次の5️つを正不正の具体例として挙げており、ミルの善悪観の参考となる。
1. 法的権利を侵害することは不正である。
2. ただし1のうち、悪法は別とする。
3. 自分に相当するものを持つことは正であり、不当な善を得たり不当な悪いものを押し付けられるのは不正である。
4. 誰かの信頼を裏切ることは不正である。
5. 権利において不公平なことは不正である(裁決を下す権限を持つものは別とする。裁判官、教師、両親など)。

▽分析哲学——沈黙する前に何が語り得ないかをはっきりさせる

 分析哲学は、意味とか概念というのはどういうものかを分析する哲学です。善悪判断、価値判断は抜きの哲学です。説明できないことについては、それ以上何も言わないでおく。
 ただわたしが重要だと思うのは、ウィトゲンシュタインは分析の結果、「人類共通の生活形式というものがある」と判断したこと。その判断をもとにして、ジョン・ロールズは正義のあり方を組み立てているから(*)。「人類共通の生活形式」があるのなら、人類全体で共有できる価値観(道徳判断)が設定できるはずだ、というのがロールズの論法なわけです。

(*)『ジョン・ロールズ 社会正義の探求者』(第1章)で、ウィトゲンシュタイン『哲学探究』§241の次の例を引いている。
a) 店頭でリンゴを指して「5つ」といえば、店員は5個のリンゴを売ってくれる。
b) 膝を擦りむいて泣いている子どもを見かけたら、その子どもは快楽ではなく苦痛を感じていると、私たちは判断する。
 a), b)は、私たちの生活形式が一致していることから可能になっている。
 ⇒人類共通の生活形式が存在する。

■結論:哲学とは錬金術だった

「プラトン以後の西洋哲学はすべて、プラトン哲学の註釈である」というのは、ホワイトヘッドの言葉らしい。わたしはこの言葉がどういう文脈で使われているのかは知りません。ただ、この言葉を聞いて、どうしてもこんなふうに皮肉に解釈してしまう。
「ニーチェが指摘するまで、ヨーロッパの哲学者たちはずっと、『絶対的な価値基準を設定できる』というプラトンの主張を無意識に受け入れてきた」
 実際、西洋哲学史を現代まで見てみると、プラトンのイデアによる絶対的基準はただの思い込みで、プロタゴラスの人間を尺度にする相対的基準の方が正しかったらしい。ウィトゲンシュタインの人類共通の生活形式を基準にするにしても、社会を前提にするにしても、です。なぜなら、生活形式でも社会でも、基準は結局人間で、人間を超えた基準を設定できていないから。

 ということは、哲学は錬金術と同じものだったんです。
 錬金術は、どうにか金を作ろうと色々試した挙げ句、卑金属から金が作れないことがはっきりした。ところが、金を作る研究の過程で、さまざまな有益な副産物を作り出していった。
 一方、哲学は、人間を超えた基準を設定しようと色々試した挙げ句、最高善や絶対的価値基準が定義できないことがはっきりした。しかし、それを探究する過程で、さまざまな有益な学問を作り出していった。
 ですから、哲学は錬金術と同じものだったんです。

 ちなみに、「さまざまな有益な学問」の「有益」が、何に対しての有益なのかについては、この世の目的ではない目先のことに対してです。社会の維持とか。より大勢の人間を養うことができるようになるとか。社会を維持したり、より大勢の人間を養って、それによって何が善いのかはわかりません。この世の目的はわからないので、そういうことになるとしか言いようがないわけです。

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