田谷仙太という男 〜泥流地帯考察〜

 「噂のデパート日進本店」田谷仙太。「田谷のおど」の愛称で親しまれる曲者が物語に幾度もアクセントを加えます。

 日進の小作農、柄沢与吉の奉公人として働く仙太は明治十一年生まれの四十歳(初登場時/大正六年に「四十過ぎて」、同十五年に「五十も近い」とありますので)。
 作中で結構なおじいちゃんぽいイメージの沼崎重平医師と同年齢。亡くなった石村義平(拓一や耕作の父)より四歳、吉田村長より七歳(作中ではどうも実在の吉田村長より二歳ほど若く描かれているような気がしますので九歳?)年上の立派な大人として登場します。

 とかく修平のような粗雑なイメージを持たれがちですが、機知に富んだ言動から察するにかなり優秀な人物であることがうかがえます。
 ある日、仙太は市街の飛沢病院に使いに出されます。飛沢家といえば当時のリアル上富良野でもトップクラスの実在名士ですが、そこで飛沢夫人に棚の修理を依頼されます。
 市街地には大工でも建具屋でも便利屋でも何でもいたでしょうが、使いで訪れた、一里も離れた日進の小作農の奉公人を家に上げ、お茶で歓待し、さらに深城の家出娘の動向などという、当時村では最もホットな話題を提供するなど並大抵の信頼度ではありません。
 また、新居への引っ越し祝いの際、修平が節子に向けて浴びせた「おめえら、嫁ば決める時はな、親を見て決めれ」という、様々な意味で修平らしい言葉で場が凍り付いた瞬間、「んだんだ、昔から諺(ことわざ)にあるもんな。嫁ばもらう時は、母親を見てもらえってな。男親は、どれを見ても似たもんだからな。男親は見ても見んでも、ええってことかな」という実に丁寧なフォローを入れています。仙太は修平よりかなり年上ですし飲み友達でもありますから、ある程度厳しく諫めることもできたでしょうが、祝いの席であることや、石村家と深城の因縁、さらには節子の人柄や境遇などすべてに配慮した、思いやり溢れる良フォローだと思います。

 ちなみにこの場面、引っ越し祝いの酒を飲もうとした仙太が、酒が御法度の三重団体であることを思い出し遠慮したことに耕作が「あっぱれだった」と、かなり上から感心するのですが、耕ちゃん、おどの評価はそこじゃないよ!と突っ込みたいシーンでもありました。

 ところで、ここまで書いてあらためて見直してみると、おどの本名である「仙太」という呼称はなんと正編の序盤も序盤、「山合の秋」の章の第三節が最後の登場です。私はおどの大ファンなので「仙太」もしっくりくるのですが、本名は読者にも忘れらている可能性が高いので以後は「田谷のおど」で統一しようと思います。

 さて、田谷のおどの境遇ですが、冒頭でも触れましたが彼は柄沢家で三人もいる奉公人のひとりとして登場し、少なくとも物語の中では農地を手に入れたり器用さを生かして職人になるなどという描写はなく、最後まで奉公人っぽいままです。
 おどが住んでいるのは主人である柄沢家の納屋の二階。物語前半にその暮らしぶりが描かれています。
 馬小屋の隣にある納屋。がたことと重い戸を開けるとぷんと馬糞の臭い。屋根裏へ直立している梯子をのぼると押入れも何もない部屋で仲間と花札に興じるおど。片隅には馬のように寝藁が敷かれ、薄いせんべい布団が載っている…
 実際の小説上はもっとリアルに描かれ、まるでむせ返るような空気感、臭いまで感じさせられます。

 それにしても、おどほどの人物がなぜ小作農の奉公人に甘んじているのでしょうか。年季奉公にしてはあまりにも年齢が過ぎています。主人の柄沢与吉にしても、借金か何かで縛り付ける深城のような悪人ではなさそう、どころか石村家の長女、富の嫁入りでは仲人を務めていますので、じっちゃんも認める沢の人格者であることがうかがえます。
 ではなぜ田谷のおどはいつまでも奉公人なのか。

 また、本作品は貧困や差別の描写として貧しい石村家などの開拓農家(しかも小作農)が題材となっているわけですが、それよりさらに、けた違いに条件の悪い「奉公人」を重要キャラとして頻出させる意義とは一体何なのか、あわせて考えてみると面白そうです。

 まず、おどの言動からは自身の境遇を辛いものと受け止めている様子は感じません。
 好きな酒を飲み、仲間と花札に興じ、噂話の収集と拡散に大忙しの日々。
 村人からは愛され、信頼されている様子ですから、若い頃は縁談もそれなりにあったでしょう。所帯をもって近隣なり十勝なり新たな開拓地に赴くことを望んだとしたら主人である柄沢氏も応援してくれたはずです。
 しかし、そうなっていないのは、もしかするとおどが自ら進んでこの生活を選択していたのかもしれません。
 もちろんおどのような耳が早く器用で気の利く男が手のうちにいることは、使用者にとってはありがたいことでしょうから、中年をすぎても本人が希望するのであれば積極的に雇用?を解消する理由もありませんし。

「なりたいものになれたら、それが成功者」
 賢人・市三郎の言葉が思い出されます。

 この言葉をあわせて考えると、「こんな境遇なのになぜ」という私の疑問自体が、ひどく傲慢であることに気づかされます。
 もし私がこの物語の登場人物で、しかもおどの身近な存在であったとしたら、「おど、あんたみたいな人、もっと稼ぎの良い働き口が必ずあるはずだよ。そんな生活から早く抜け出しなよ」と、アドバイスのつもりで口を出していたでしょう。
 おどは私の心無い「善意」を笑い飛ばしてくれたでしょうか、口をとがらせて怒ったでしょうか、それとも深く傷つけ黙らせてしまったでしょうか。
 同じような言葉を市三郎ら石村家の人々に向けたらどうだったでしょう。耕作は「そうですね、じっちゃんも兄貴も市街でうんと稼いで、しかも皆に喜ばれる仕事ができるはず」と同意するかもしれません。良子も喜ぶでしょう。しかし拓一や市三郎は水面のような静かな眼で私を見つめて、優しく諭すでしょう。
「なりたいものになれたら、それが成功者だよ」と。

 小作農家の貧しさが重要な要素であるにも関わらず、さらに悪条件下で愉快(そう)な人生を送る登場人物の存在意義。

「人間の偉さは金のあるなしでは決まらん」
 読者が市三郎の数々の格言を振り返り、咀嚼するための、作者三浦綾子さんの心配りかとさえ思ってしまいます。

 ところで田谷のおど、噴火当日は清水の沢(市街から日進に向かい、学校の沢へ曲がらずに直進した先の沢。清富地区、美瑛の白金温泉等につながる沢。これも実在します)で酒盛りをしていたため難を逃れたことには触れられていますが、その後の生活はちょっと謎の面もあります。
 奉公先の柄沢家は耕作が「山津波」を目撃した学校の沢の出口付近にありましたので、立地的に当然跡形もなく泥流に流されていますが、与吉本人をはじめ世帯の者が亡くなったような記述はありません。一方で農地は丘の上に広々と残されていることが記されていますので、住処こそ失ったものの、主人が健在であるならば引き続き農業を営んでいたことも大いに考えられます。
 しかし「おどが『前に奉公していた』柄沢~」という一文があり、柄沢家とおどの奉公人と使用者という関係は解消された可能性が高いようです。
 ただ同時に「おら昨日、飛沢病院に『やらされたんだ』」とありますので、雇用関係ではないものの、仕事を依頼し、引き受ける程度の関係は継続しているようにもうかがえます。

 罹災後も・・・
・三重団体の新居への引っ越し
・博労から新しい馬を買う日
・耕作の父、義平の命日
・ラストシーン、稲刈りの手伝いに
 などちょくちょく元気な顔を見せていますので、失業して食うに困っている、なんてことは無さそうです。

 恐らく、自分から望んで自由な生活をしていた田谷のおど。奉公先が罹災することで、どうやら五十歳を迎え新しい生活スタイルを築きつつあるようです。何にせよ上機嫌に暮らしている様子なので読者としても一安心ですね。



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